「差別と向き合うマンガたち」と「MASTERキートン」

吉村和真・田中聡・表智之「差別と向き合うマンガたち」と「MASTERキートン
 臨川書店から今年の夏に出版された本である。マンガコラムニスト夏目房之介氏が自身のブログで触れているので実際に買って読んだ人もいるだろう。私もその口である。部落問題研究所の機関紙「人権の部落問題」に約3年にわたって連載されたコラムを一冊にまとめたこの本は、ブログ等でマンガについてあれこれと語っている人たちこそ読むべき本だろうと強く思う。
 「マンガと表現」、「マンガと歴史叙述」、「マンガと現代思想」と3章からなるこの本は、特に最初の章「マンガと表現」を巡る問題に私は刺激を受けた。というのも、この章で問題になっているのが、何気なく使っているリテラシーという言葉に潜む偏見を炙り出しているからである。
 実際のマンガ作品を例にし、このキャラはどんな性格でどこの出身地で……あるいは逆にここ出身でこういう性格のキャラはどう描かれるかというような例題が出される。答えはない。重要なのは、そこで読者自身がイメージしたキャラクター像そのものなのである。マンガリテラシーがある人にとっては、そうしたイメージは過去の作品群から抽出したデータベースを元に――いやそんな大袈裟な論理でなく直感でも、東京が舞台の学園マンガに鹿児島からの転校生が来たといわれれば、多くの人が抱くだろうキャラクター像というものがある。「巨人の星」の左門豊作みたいなイメージだ。また、中国人の記号としての「〜アルよ」という口調等も含めた挙措振る舞いまでもが、そうした期待されるイメージに少なからず負っている面がある。特に視覚メディアとして表現が発達したマンガは、その影響を受けやすいというわけだ。これは本書の第3章でも触れられる森薫「エマ」ユダヤ人描写問題にも関わっている。ネットで一時話題になったので知っている方もいるだろう。
 「エマ」6巻に登場するエマを攫う人物の造形が19世紀末イギリスのユダヤ人への典型的な偏見による造形と全く同じという問題である。劇中では、その男の素性は一切触れられていないけれども、見る人が見れば瞬時にユダヤ人を差別的に描いた絵とわかるわけだ。3章を担当した表氏は、作者の綿密な時代考証がかえって当時のイギリスが抱えていた差別をも作中に描きこんでしまったのだろうと擁護しつつも、「これは確かに差別表現である」と断じている。ネットでのエマ論争では、さすがに過敏に反応しすぎだろうという意見が多いというのが私の印象であるが、本書を読むと、これはその程度で済む問題ではないだろうという気がしてきた。本書ではページ数の都合からか、ネット上でこういう論争がありましたという紹介程度で終わっているが、1章、2章とマンガ表現が無意識裡の差別心・いや差別とまではいかない、その危険性を常に孕んでいることに無自覚なことが、物語を作ること・語ることの落とし穴になりかねないという警鐘をひしひしと感じていたので、当時傍観者としてこの議論を眺めていた私にとって、私も知らず知らずのうちにマンガを読むことで差別問題に巻き込まれていたことを痛感したのである。
 本書のテーマにも通じているけれど、マンガというメディアはその特性としてどうしても社会と差別(あるいは教育とか倫理とかと)から切り離せないのである。マンガが連載・掲載時の風俗を作中に盛り込んでリアリティを醸そうとする以上、避けて通れないわけだ。3章で様々な具体例が挙げられているのでもうひとつ紹介すると、西原理恵子毎日かあさん」の問題である。
 エッセイマンガであり、子育ての様子を作者特有のギャグで描いたこの作品が、作者の子供が通う学校のある描写で、担任の教師が西原本人を呼び出し「学校を描かないでほしい」と注文をつけたというのが発端である。その後、西原がPTAに拒否されたとかなんか大きな話題になったものの、西原本人が自身のサイトでこの件についてのコメントを掲載し、以降は当事者同士による話し合いでけりがついたとかなんとかなったようだけれども、ここで本書が語るのは、誤読問題である。
 「エマ」ユダヤ人の件もそうだが、作品が一度作者の手を離れれば、それがどう解釈されてしまうのかを作者が制御することは出来ない。マンガの内容にケチをつけた学校側を「マンガをわかっていない」と非難するのは簡単だ。けれども、西原が描いた学校の描写に笑った読者がいる一方で、不愉快な思いをする読者もいるということである。それらをマンガリテラシーがないからという理由で無視してよいのか、ということである。よしながふみ氏が恩田陸氏との対談で語っていた言葉が思い出される。
 「(怯えながらマンガを描くというよしなが氏は、恩田氏に「どうして」と訊かれて)やっぱり表現することの恐ろしさというか……特に漫画って非常に具体的な表現ですよね。(中略)それが具体的な表現である限り、絶対に誰かを傷つける表現方法なわけですよね。(河出書房「文藝」2007春号 特集恩田陸」より)」
 作者の意図しない読み方。これを誤読と言うか言わないかという問題もあるが、多用な情報を盛り込んで描く、特に写真を背景に用いる作家もいるわけだし、そういう書き手にとっては、思いもよらない解釈をしてしまう読者というものの存在を忘れてはいけないし、そういうものを恐れては何も描けなくなってしまうのだから、何かを表現するってことがどれほど社会と関わってしまうのかという点だけは肝に銘じたほうがよさそうだ。
 では本書でもっとも面白く読めた第1章(というと、著者の田中氏と表氏には失礼かもしれないし、これがきっかけで吉村氏との間で悶着起こされてもたまらないし、そもそもそういうのを気にしてたらきりが(以下略))について触れよう。
 キャラクターの描写に潜む偏見である。これがそのまんま差別とかいう話に発展するわけではなく、世の中に蔓延している特定の人種へのイメージ・特定の性格に対する好悪等などに注意を向けると、例えばあるキャラクターを見て、これはこういう立ち回りをし、こういう性格だろうと想像した読者自身に、差別に繋がりかねない偏見があるかもしれないよ、という指摘なのである。
 外国人がイメージする日本人として「メガネ・出っ歯」という紋切りがある。このイメージは19世紀後半・明治時代の日本にはすでにあったことを紹介した上で、吉村氏は浦沢直樹勝鹿北星MASTERキートン」5巻の「ノエルの休戦」に登場する小太りの日本人を例に挙げる。「ええ……まあ」が口癖ではっきり物を言わず、メガネをかけた商社マン、それに連載時期がバブル崩壊前である。外国人が想像する典型的な日本人像を踏まえているのは間違いない。この話は、そんなあいまいな物言いの彼・山本と、主人公キートン(父が日本人で母がイギリス人)をゲストに商売敵である他社のビジネスマン・アンダスン(アメリカ人)とモレル(フランス人)の二人を加えた四人によるクリスマスを祝う一席を描いている。
 本書では紹介程度に収められているけど、さらに読んでみると、人種と性格が色濃く反映されていることが理解できる。冒頭、キートンとともに登場するアンダスンはモレルについてこう触れる、「モレルさんはフランス人には珍しく、時間にうるさいビジネスマンなんだ」。モレルは食事に出されたチキンをほおばりながら「ドイツの地鶏は最高でしょ? 私の国、フランスもかなわない。」、遅れてきた山本に対しアンダスン「みんな忙しいビジネスマンだ(中略)特に、おたくら日本人は、クリスマスも新年もないからね」、はっきりと返事をしない山本にまたアンダスン「日本人は本当に、イエスとノーをはっきり言わないんだから」と日本人への非難が続けられる。場所を変えて飲み続ける四人。ついに山本が酔った勢いでアンダスンに「あんたなんか、大嫌いだ!!」とぶちまけてしまう。すぐに平謝りする山本だったが、なんとなく興ざめた雰囲気をキートンのひとアイデアで仲直りする。日本人だからフランス人だからといろいろ言っていたアンダスンに対して、そういう人種がどうこう言わない山本が最後に仕掛けたプレゼントに添えられたメッセージ「来年も、メイド・イン・ジャパンをよろしく」という洒落たオチで締めくくられるこの小話だけで、人種に対するある種の典型が見て取れるだろう。
 浦沢氏は外国人の描写に定評がある作家だけど、ひっくり返せば、私たちが抱いている外国人のイメージの最大公約数を理解している・ひょっとしたら偏見になりかねないそれらイメージの表現に長けているとも言える。「ノエルの休戦」でやたらと日本人に攻撃的なアンダスンがアメリカ人なのも、当時(1989年頃)の日米関係を考えれば当然の性格設定だろう。
 さて、本書では触れられていないが、「MASTERキートン」には人種のイメージを物語の設定に利用した挿話がいくつもある。16巻「メイド・イン・ジャパン」もその例のひとつである。
 この挿話はイギリス滞在中のキートンが殺し屋に命を狙われるというシリアスな展開が続く。だが、そんな殺し屋として登場するのが、初老にも見えるサラリーマン然とした日本人・中村なのである。彼の特徴は、腰が低く、誰にでも笑顔で、そのために近所の人からは日本人は何を考えているかわからないと評されるほどである。もちろん背は低くメガネを掛けている。彼の殺し屋としての評判はこうである、「値段は安く、性能は抜群、しかも故障知らず、彼なら確実です」。海外市場での日本製品の評価が重ねられているのは言うまでもない。また一方で登場する殺し屋のアメリカ人は力強く巨躯で、ベトナム戦争経験者で、ベトナムに送り出す時は英雄扱いしながら帰ってみれば白い眼で見られたと不満を語り日本人に仕事を奪われ職がない、と中村にわめき散らす。そんな彼がベトナムで、無抵抗な少女を殺したという一場面を加えることで、彼の主張に説得力を失わしめている。粗暴なこの男がやられしまうことにちょっとしたカタルシスさえ与えようとしているキャラクター設定の綿密さに浦沢・勝鹿の上手さがあるのだが、本書を踏まえてこの挿話を眺めれば、浦沢氏が描いたキャラクターに、浦沢自身が抱いている人種への偏見がないとは、やっぱり言い切れないのである。
 もっとも、キートンの設定を考えれば「MASTERキートン」が人種への偏見と切り離せないという面もあるだろう。時に「ハーフジャパニーズ」と呼ばれるキートンだが、彼が人種についてあるイメージを語った場面は、そういえば一つもないような気がする。読み返してみよう。