「オタクコミュニスト超絶マンガ評論」を読んでマンガ系サイトを思ふ

紙屋高雪オタクコミュニスト超絶マンガ評論」を読んでマンガ感想系サイトを思ふ
 マンガ感想系サイトの良心・紙屋研究所の本が出た。これまでサイトで書かれた文章を再編集した紙屋研究所の自選マンガ評論とも言える本である。よって過去に読んだことがある文章が目立つが、今現在読み堪えうるものとして改稿された部分も散見される。コミュニストとしての自負と己の人生への自讃(とちょっとした羞恥)が垣間見える紙屋氏のマンガ感想は、感想の王道中の王道と私は思っている。自分の立ち位置を明確にした上でのマンガで語られる人生や社会・政治論は、安心して同意したり異論を唱えられる点で、常に議論への発展を目論んでいるような誤読さえしてしまう。いや実際、紙屋研究所がブログで綴られていたならば、おそらく多くの閲覧者による議論がそこで戦われる様子が想像できる。未読の本には興味が沸き、既読の本には好奇心が刺激され新たな読み方を獲得できる点で、現在、紙屋氏に勝る感想サイトはない。
 さて、書籍という形式でこれを改めて読むと、以外と文章量が少ないことに驚かされる。感想頁を開けばスクロールバーがみるみる小さくなっていく、という妙な興奮が本では味わえないけれども、代わりにいつでも好きな感想がパラパラと読めるという妙な安心感はある。というわけで紙屋研究所の感想がお好きな方は迷わず買いである。ていうか私はすぐネットで注文したし。
 紙屋氏が感想でいつも大事にしているっぽいのが「王道」である。これは、下手に某作品と比較して某作品を暗に貶してしまう道具に堕するを避けんがための作法かもしれん。一方、多くの読者が思う王道・一般常識と言っても言い過ぎないほどの作品(マンガを趣味としない人も読んだことなくても聞いたことあるってくらいの知名度がある作品)との比較に関しては容赦がない。たとえば「孤独のグルメ」の感想において「美味しんぼ」と比較するくだりは関川夏央の言を引用しつつも執拗に攻め立てる。「高校デビュー」の感想では、乙女チックのような「王道」としての少女漫画像を念頭にし、一端拒絶されたかにみえた王道が鮮やかに山場で回収されて感動せしめる具合を詳細に綴る。「カラスヤサトシ」の感想では、「ドラえもん」の小話を冒頭に用意し、誰も他人には理解し難い嗜好を持っているという言葉にすれば「人それぞれ」という他愛もないおためごかしに陥ってしまうところを、いや実はそれがこの作品の面白さなんだよと躍動する文章が小気味好い。多分、本人が王道ではない(いわゆる左翼っていうのか)ことを自覚しているからこそ、マンガの中で描かれるお約束の物語がぶっ壊されたり、実はその王道こそが、王道が描かれなくなった今という時代にこそふさわしいみたいな感じがあるのかもしれん。「多少衒学趣味的に」とはじめの言葉にあるけれども、そんなことを意識させないようなわかりやすい文章も魅力である(そういう点で、感想サイトの王道になった紙屋研究所がその後どう展開されるのかも見逃せない)。
 さて、この本は紙屋氏の言葉を借りつつまとめれば、マンガで何かを語ろうではないか、という宣言文である。人生とか政治とか世界情勢とか環境問題とか。こういう意識は、最近では小田切博「戦争はいかに「マンガ」を変えるか」とか、吉村和真・田中聡・表智之「差別と向き合うマンガたち」あたりを読むと強く感じられる。本書もそのひとつとして挙げられよう。
 私自身ほそぼそとではあるが、それでもサイトを立ち上げてから8年半、ネット上のマンガ感想系サイトの流れを傍らから眺めていたつもりである。だからというわけではないけど、マンガ語りの変化、ということについて、紙屋氏の表明には違和感を覚えている。マンガ語りはそんなに表現論に偏っているかな? という感覚である。
 たとえばあなたがブクマしているマンガ系サイトの中で表現論を中心にしているサイトってどのくらいある? 私は一個もない。はっきり言って私のサイトも表現論に偏っているつもりはない。私が自身のレビューを「感想」とこだわるのも、表現論を装った感想に過ぎないことを自覚しているからである(一方でそう意識した文章もあるけど、そういう時は感想文とは言わないようにしてる)。そもそも私がサイトを立ち上げたきっかけは、もちろん「BSマンガ夜話」の影響もあるけれども、9年、10年前のマンガ系サイトの貧しさが一因である。
 今でこそいろいろなサイトがあるけど、当時は、漫棚通信ブログ版の一文を引用すれば「○○買った、読んだ、おもしろかった、オススメ」で片付けられるサイトが目に付いた。今もそういうところはあるけど、サイト数が膨大過ぎてほとんど埋もれているし、たまに思い立ったかのようにマンガについて語り始めることもあるから侮れず、毎日マンガの感想を漁るだけでも数時間を要しかねない。で、そんなサイトばかりでもっとみんなマンガについて語れよボケ!という憤りが、じゃあ俺がいっちょやってやらぁと立ち上げたのが当サイトという次第である。だから長文感想といえば、数えるほどしかなかった。今はいっぱいあるけど。
 で、サイトを立ち上げて感想を拙いながらもちまちまと書いているうちに、感想サイトが続々と生まれ、次々とアクセス数を追い抜かれ面白くて有名になり、私のサイトがどんどん埋もれていく……うわーん。・゚・(ノД`)・゚・。
 まあでもあれだ、今の感想サイトって混沌としてるじゃん。マンガの数が多すぎて一人では把握しきれないくらいになったように、マンガ系サイトも一人ではチェックしきれないくらい数が増えた。どれも選び放題って状況は、紙屋研究所風に言えば、カオスは民主主義の本来の姿でありマンガ系サイトは中心を見失っている、左翼のぼくに言わせれば、これはどうにもならない膠着であると同時にチャンスでもある、右にも左にも傾きかけない不安定な状態だが、こういうときに強力な指導者が現れれば、事態は一気に進展あるいは後退するだろうし、そういった現象は小泉時代郵政選挙や今年の参院選ですでに体験している、浦沢直樹は「PLUTO」5巻で、このような政治的膠着をテディベアやアトムに封じ込める……(ごめんなさい)
 確かにマンガで何かを語るスタイルは「BSマンガ夜話」の影響で減ったかもしれない。でも、今日こんなマンガを買ったよ、という報告そのものが実はサイト主・ブログ主の嗜好を表現してもいる。以前の感想やコメントで読んだことないって言っていたとこが、数日後のブログの買ったよ報告を見ると、ちゃっかり当該マンガを購入したりしている。そして、その後のマンガ語りに、その作品が加えられるかもしれないというわくわく感……私が嫌悪していたはずの一言感想や買ったよ報告そのものが、実はマンガでその人自身を語っているのである。そうした集積は無視出来ないほどの量となってネット上に漂っている。検索によって集められたそれらは、このマンガをどれだけの人が注目していたのかを知ることが出来るし、稀に興味深い感想や考察に行き当たることもあるのだ。
 またそういう世間の波風は、感想サイトの管理者ほど肌身に感じているだろう。私のサイトを例にすれば、「おおきく振りかぶって」がアニメ化され桐青との試合が放送されると、桐青戦について書いた文章にアクセスが殺到した。自虐の詩が映画化されると、自虐の詩の感想へのアクセスが増えた。さらに最近だと度胸星が再版された影響か、その感想文へのアクセスがある。マンガというメディアだけでは測れない状況を前提にしなければ、もはやマンガそのものを語ることは困難なのかもしれない。
 あなたの「こんなマンガ読んだよ、面白かったよ」という一言が、誰かを動かすことだってある。すでにそれは、マンガについて何かを語ったと言えないだろうか。と、強引にまとめてみた。
 最近買ったマンガ
  くらもちふさこ「駅から5分」1巻 最高に面白かったよ。
  西炯子「電波の男よ」 すげぇ面白い。
  安彦良和機動戦士ガンダム THE ORIGIN」16巻 やっぱ面白い。
  カトウハルアキヒャッコ」2巻 未読。1巻が面白かったので読むのが楽しみ。
  浦沢直樹PLUTO」5巻 高値安定。面白すぎ。
 それにつけても「よつばと!」感想の正直さよ。この作品を語るときに多く見かけた郷愁だの子どものかわいさだのという言説の優等生ぶりも、この感想の開き直りには参ることだろう。よつばからかき消された妖艶さが、隣の三姉妹に宿っているという指摘、作者の「性的なまなざし」を喝破するくだりは最高である。ネットで読んだ時もよくぞ言ってくれた!って感じだったけど、改めて本になると印象の濃度が更に増すな。風香の胸のふくらみを強調するかのようなTシャツの皺の一本一本の線こそが、「よつばと!」にそこはかとなく漂っているエロスなんだよ。子どものほのぼのさという王道ともいえる感想を語りつつ、己の欲望をも隠さずに論じてしまう手さばきに、しまうーの素晴らしさを再確認した。