短編漫画礼讃

短編漫画礼讃
 長編漫画は駄作である。
 一体何年待てば完結するのだろう、そんなに気が長いほどに暇じゃないし時間も限られている。
 面白かった連載の突然の打ち切りなんて目に遭えば、あるいは作者の気まぐれで唐突に終わってしまう作品の数々。一読者として、なんでこんな不愉快な思いを作者や雑誌に対して抱かなければならないのか。
 連載誌の休刊に至っては、もうどうしようもない。休刊じゃ仕方ないよね……なんて諦めが付くと思うのか。そんなわけない。面白かったんだよ。ホントに本当に最高に面白かったんだよ。なのに世間は残酷なのね、人気の低迷によるテコ入れと称したストーリーの改変、雑誌の編集方針に右往左往するストーリーの捩れ。どれほどの作品が連載という不安定な状況の中で駄作と化していったのだろう。もう嫌だ、嫌過ぎる。長編漫画なんかつまんない。いつか私を裏切る。きっとそんな気がする。いつかストーリーの魅力も色あせる、いつか増えすぎたキャラクターの整理が付かなくなって破綻する。
 でも……でも短編は私を裏切らない。連載の中断も休刊も関係ない。たった一度の感動が全て。不安もない。むしろ名残惜しいときだってある。あの数々の名作たち。何年後かに読み返しても色あせることのないストーリーに破綻も何もない。つまらなかったら、なーに、すぐに忘れればよい。来週・来月は面白いかも、なんて期待という名の言い訳も必要ない。この一作、わずか数分、数十分で得られる幸福感に比べたら、長編の怠惰な日々がばかばかしくなる。あぁ、素晴らしい、素晴らしすぎるよ、短編漫画。神は細部に宿るというなら、短編にこそ神は宿っている。
 たとえば「半神」。たった16頁。これだけあれば人生なんて語るに足りる。何も訴えないユーシーの表情に、どれほどの感情が詰まっていたのか。そこに神を見るのも、憐れみを感じるのも、何も感じないのも自由だ。初めて見せたユーシーの言葉はすぐに途切れたが、ユージーは感じ取ったに違いない。憎むばかりの人生だった。面倒な妹だった。何故くっついているのか。負の感情を、ユーシーは自分の死とともに抱きかかえるようにしてユージーから取り除いていった。ユージーの憎悪は、干からびて息絶えようとしているユーシーの姉に向けられた笑顔とともに消え去った。だからユージーは泣く。憎悪の代わりに押し寄せてきたのは、喜びではなく、悲しみだったのだ。植木鉢から出た小さな芽が次のコマで大きく花開く演出、時の流れが16頁の中に無駄なく詰まっている。妥協も諦念もなく、精緻に織り上げられた傑作を、私たちは、ほんの短いひと時で体験することが出来る。これを素晴らしいといわずして何と言おう。
 たとえば「劇画・オバQ」。20頁。わかってる、わかっているよ。「オバQ」という長い連載漫画があったからこそ得られる感動だって、わかっている。けど違うんだ。あの長期連載そのものが、このひと時のための前奏なのだ。人気を博し知名度を上げ、アニメにもなった。まさに代表作。しかし、誰がこんな短編を予期しえようか。あれらは全て、この一作を書き上げるための、準備期間に過ぎない。その準備期間でさえあんなにオモシロおかしいのだ。本編がつまらないわけがないではないか。「15年後のオバQ」ではなく、「劇画・オバQ」というタイトルになった時点で、この短編はメタフィクション物としてはもちろんだが、傑作であることが約束された。だが多分、いや絶対に、この短編は「オバQ」を知らなくても楽しめ、郷愁に浸れるひと時を提供してくれるはずだ。現実を生きるキャラクターたち、と言えば無難だろう。だが、私は見逃しはしない。この短編でもっとも子どもの心を失っていないものが、ハカセの新事業への挑戦でもなければ、昔を懐かしむ語り場でもなく、正ちゃんの笑顔であることを。あのシルエット、「いやあ、なつかしいな」と家に集まった幼馴染の影が映った夜の窓ガラス。オバQの毛が三本を中心に、一瞬、劇画調の線が解放された瞬間、次の頁をめくると私たちは成長したキャラクターのありふれて地味な言葉にうんざりしそうになるかもしれない。そんな思いが、正ちゃんが妻から子どもができたことを知らされて狂喜乱舞する。オバQは、正ちゃんはもう子どもではないと去っていくけれども、正ちゃんがはりきって出社するあの笑顔にこそ、劇画調にも「オバQ」にもない、本物の子どもの笑顔があるのだ。

 長編漫画は病気である。
 本屋に行く楽しさはいくつになっても変わらない。無用の用の昂揚感や面白さは、ネットではなかなか味わえない。未知の作品と出会う可能性に溢れた書棚めぐりは、時の経つのを忘れさせる。けれど、そんな気分をぶち壊す数字がある。初めて見る作品の表紙、たまたま目に止まったタイトルに惹かれて手にした単行本に刻まれた残酷な数字。なんだよ、この数字は。続きがあるのか。それはいつ出るんだ、連載がまだ続いているのか。まだ序章に過ぎないのか。ストーリーの土台作りにそんなにページ数を費やさなければならないほど、だらだらとした作品なのか。なげーよ。これから始まり? これで十分なはずだぞ。知ってるんだから、みんな短編から始まったこと、原点がそこにあることを。16頁、32頁、あいるはそんな規定にこだわらない新人賞など。でも、なんで初単行本に、悪夢を印してしまうのか。それはあれか、一読者の私をこれから何年も中毒にしてしまうぞ宣言か。続きは? ねー次巻はいつ? という無間地獄に引きずり込む魂胆だろう。そうはいかない、騙されないぞ。
 でも、短編はそんなことしない。人生に優しく健康にも配慮した、いつも私のことを考えていてくれる、とてもいい奴だ。待たせることも、それでもって苛々させることもない。慈愛に満ちている。短編は思いやりを知っている。
 たとえば「チワワちゃん」。34頁。若い女性の無残な死をきっかけに集まった若者たちが折々に語る彼女の断片は、小さな話の集まりだ。キャラクターが次々に現れ、チワワちゃんとの関わりを物語る。どれが本当の彼女の姿なのか。誰も知らないし、誰も語らない。チワワ像が順々に描かれては否定され上書きされ、またはまったく別の形で登場したかと思うと、本当の彼女というものそのものが幻想に過ぎないかのような気がしてくると、彼女の生前の姿は、一体なんだろうか、という思いが馳せる。葬式の場では決して聞くことの出来ないチワワちゃんの物語。参列しなかったキャラクターだけが知っているその姿は、親族たちには知られることのない裏の物語だろう。だからビデオに収める。チワワちゃんのことをよく知っている人も知らない人も。彼女がバラバラの腐乱死体で見つかった東京湾で、キャラクターたちはカメラの前で改めて語り始める。それはもう本当にバラバラ。でも、そんなバラバラな言葉が、コマの中にレイアウトされて、本編とは別の「チワワちゃん」を生む。キャラクターひとり一人が抱く短編が集まり、「チワワちゃん」という短編を織り成し、カメラによって次の短編へと繋がっていく。彼女の人生は単行本一冊にも満たない薄さで終わったかもしれないが、彼女の短編はその後も各々に語り継がれ、見続けられていく。
 たとえば「美しき町」。40頁。ノブオとサナエの若い夫婦の団地暮らしの日常。世間との関わり。二人だけの物語ではすまなくなっていく生活を世界が広がっていくと形容するのは容易い。世間は厳しいと説諭するのも楽だ。隣の井出のちょっとしたいたずら心と、それが共有されないことへの憤りからくる嫌がらせ。ほんの少しの悪意が若い夫婦の平穏な一日を一変させた。同じ工場に勤める人々の熱意は本物だろうし、ノブオも同じ気持ちに違いなかろう。集会の様子を聞き入ってしまうサナエだってそうだろう。でも、真剣になればなるほど、人生はつまらないような気がしてくる。真面目になればなるほど、他人への悪意が娯楽になってしまうかもしれない。だからサナエがノートに書いたいくつもの落書きが調子いい。日常の繰り返しの中で一息つける日曜日のちょっとしたピクニックで眺めた景色も、暖めたミルクを飲みクラッカーを食しながら徹夜明けの団地の一室から眺める町の景色も、どちらにも価値があった。むしろ、この町で生きていくからには、いつも眺める景色に感動したい。そのためには、ちょっとした変化、短編のようなひと時があれば十分なのだ。
 短編は清涼剤である。短い時間で伏線の収束を体験でき、キャラクターの変化を目の当たりにし、再読して何度でも楽しめる。「半神」の作者は、ある雑誌で語っていた。
「(昔の)少年誌の連載はだいたい15か16枚で、それで毎回、主人公が波乱の人生を送っていたから、その影響があるのかな。ずいぶんたくさんあったんですよ。」「なんだか贅沢な短編でしたね。」「(最近『デスノート』を読んで)なぜこういうことをするのかということが長々と書いてありました(笑)」
 今だって面白い短編はいくつも描かれ続けている。「贅沢な」時間こそ、短編で味わえる至福なのだ。さあ、今こそ声を上げよう、短編漫画は素晴らしい!!
(誰か、「長編漫画礼讃」を書いて)