言葉のない世界

 言葉を話して暮らしている私たちには想像も出来ないことだけど、言語を持たない人ってのは確実にこの世の中にいる。まあ言語をどう定義するかにもよるんだけど、ここでは人と話したり聞いたり出来るってことと、言語で思考している・内的対話(脳内会話)をしながら考えるってことね。まあ言葉が話せれば至極当然のことだけに、改まって説明することでもないし、個々の言語観に拠ってもらってもぜんぜんかまわないということにする。
 言語の習得時期の上限は一般的に幼児期(5〜6歳)と見られることが多いけど(本を読んだ限りでは、今ではこの説は否定されているのかな)、不幸にも機会を奪われて成長した人の例がある。昔は野生児の例が多かった、オオカミ少年とかね。親が異常者で子供を何年も密室に閉じ込めたままにしていたとか、椅子に縛りつけたままにしといたとかという例もある。こういう人たちが保護され教育される過程を描いた本もあるようだ、私は読んでないけど。
 だから特殊な例として片付けられやすかったけど、先天的に耳が聞こえない聾唖の子供のケースが実は一番多い。親が聴者(聾の人を聾者というのに対して耳が聞こえる人のこと。健聴者のほうが一般的かな)だと子が聾であることに気付かないことが多く、知恵遅れと勘違いしてしまう場合がある。これなんか言語で思考するのが当たり前というか、言葉は話せるもの・言葉で考えるものという偏見・あえて偏見と書いちゃうけど、そんな意識があるからだろう。そうして育った子が長じて、それでも小学校入学前に実は耳が聞こえないことが判明すれば幸い、手話を教えて言語を獲得させれば聴者同様に言語で思考できるようになる。この時の内的対話は手話をイメージしているようだ。手の動き身振りを頭に思い浮かべながら考えるって感じでいいのかな。この辺は聾者に聞かないとわかんない。
 手話は聴者の言葉を手の動き身振りに置き換えたものって印象が強かったけど、今では自然言語の一つとして認知されている。だから母国語にもなるし方言もあるし、手話が出来る聴者は立派なバイリンガルだ。聾者を親に持つ聴者の子の例だと、手話をまず獲得してしまうことだってある。
 さてしかし、諸外国では教育を受けられない環境の子供もいるわけで、聾者の子は言語を獲得できずに大人になってしまうことがある。スーザン・シャラー「言葉のない世界に生きた男」は、そんな環境の中で他人とコミュニケーション出来ずに成年に達した27歳の男性に出会った著者の、言語を巡るルポである。
 手話通訳者の彼女がパートとして働くことになった聾者のための教育施設に彼はいた。名前をイルデフォンソ、メキシコ系の青年だ(彼には叔父がいて、その叔父が彼の大まかな素性を把握していた)。みんなが手話でいろいろと話したり教えられたり活動しているクラスの中で、彼だけが席に着いたままじっとしていた。彼が気になった彼女は話しかけても(もちろん手話で)動作を真似るだけで、彼が言葉を知らない・物に名前があることを知らないと直感する。そして、なんとしても彼に言葉を教えたいと意を決した彼女の苦闘が切々と綴られる。
 この本、従来の学者専門家の書いた本とは違う。著者は手話通訳者として働く一般人である。書籍化の過程も少し描かれている。なにより著者には教える技術がない。だから著者が教えることを通じて言葉について考え、話すこと・考えることの不思議に興味が傾いていく様子が、聾に無知な私と共鳴し、専門家にとっては自明のことも一つ一つ丁寧に考え文章になっている。衒いも自負もない、謙虚な姿勢に貫かれた本だ。
 スーザンは文字や手話、ジェスチャーを駆使して物には名前があることを教えようとする。だがイルデフォンソは彼女の動作を真似するだけで何も通じない。彼から何かを訴える様子もない。気が付けば彼は腕組みをして物思いにふけるような顔でじっと動かなくなる。そんな日々。言語を習得した瞬間の感動とか、少しずつ彼と意思が通じていくような気がする過程など読みどころはいくつもあるが、私が最も興味を引いたのはそこではない。後に単語を少し覚えたものの会話と呼べるレベルには達していないままにスーザンは彼と別れることになってしまうが、その後彼女は彼と同じような人がいるはずだと聾唖の施設やその道の専門家(その中の一人がオリバー・サックスで、書籍化への原動力となる。序文も寄せている)を訪ねまわって、そういう人たちを教えているプロ達に出会うことになる。
 言語を獲得しないまま成長した彼らだが、理解していた概念があった。数字である。イルデフォンソも簡単な足し算が出来て、一つの単語を覚えるのに一日とか平気で費やすのに算数の理解には数分とか数十分しかかからない。ここが私にとって一番驚異的だった。他の聾者の例でも数字は理解しやすいことが述べられている。言語が理解できないのに何故数字はわかるのか、足し算引き算が出来るのか、計算式が解けるのか。数字は言語の一種なのか。足し算の答えを導くことは言語の思考ではなく、別の世界たとえば非言語の世界で行われている思考なのか、ていうかそれは思考と呼べるものなのか。もう私には全然わからないのね。
 さてさて、スーザンはイルデフォンソと別れてから実に7年後に再会することになる。いやもうこれが実話だってんだからすげーのなんの。再会した彼は流暢に手話を綴り、庭師として働いていた。そこでスーザンは彼が言語を獲得する以前に体験したことを知ることになる。人々が何かで意志を通じている様子から、そういうものがあるのだろう、自分もそれを知りたい学びたいという欲求。なにか意味があるらしい何か(文字)も理解したい。ひたすら求め続けながらも果たせないどころか訴えることも出来ない。多くの人が彼の前に現れ、何かを伝えようとし、諦めた表情をして去っていく。だが、彼にとって他人の身振り手振りは命令でしかなかった(彼が当初スーザンの動作をそっくり真似ることしか出来ないことからもそれが察せられる)。でも、肝心な点を彼は語らない。言語を知らない状況下で考えることとは、どういう状態なのか。ここがもどかしかったけど、多分、彼自身表現できないっていうか、言語化できないんだろう。言語がないってことを言語で伝えられるかってそりゃ難しいよ、無理かもしれん。だけど記憶はあるし算数は出来る。非言語の状態で感じたことは表現できるんだね。
 言語を知らないイルデフォンソは牢獄に閉じ込められている、というような比喩が本文にある。だが最後まで読むと、これは単に立場の差でしかないのではないかと気付かされる。再会した彼に呼ばれて出席したパーティーには彼同様の聾者がたくさんいた。教育を受けていない人もいた。彼らは拙い手話と豊かなジェスチャーで互いに意思を通じ合い、笑いあい、理解しあっていた。私は、牢獄に閉じ込められているのは、むしろ聴者のほうではないかと思った。イルデフォンソに物の名前を教えようともがくスーザンの姿が、鉄格子をこじ開けようとしている囚人そのもののように思い至ったのである。あなたが開けようとしている人の心の扉は、あなたを閉じ込めている扉なのかもしれない。