映画「サイドカーに犬」感想

映画「サイドカーに犬」感想
 楽しい。こんな楽しい映画は久しぶり。竹内結子の魅力も多分にあるけど、丁寧に描写される少女の視線が素晴らしかった。
監督:根岸吉太郎  原作:長嶋有  脚本:田中晶子 真辺克彦
撮影:猪本雅三  照明:金沢正夫  美術:三浦伸一 録音:横溝正俊
編集:小島俊彦 音楽:大熊ワタル  主題歌:YUI「Understand」
製作:若杉正明  プロデューサー:田辺順子  配給:ビターズエンド CDC
主演:竹内結子 松本花奈/谷山毅 ミムラ 鈴木砂羽 トミーズ雅 山本浩司 寺田農 松永京子 伊勢谷友介 川村陽介/温水洋一 樹木希林 椎名桔平 古田新太

 原作は既刊なのでネタバレは気にせず書く(原作にないエピソードもあるらしいので、そこはさくっとだけ書いとく)。
 根岸監督と言えば前作の「雪に願うこと」があったけど、世間の好評とは別に私個人はあんま面白くなかった。存続の危機が報道されたばんえい競馬を扱うタイムリーな面もあったけど(実際の騒動は公開してからしばらく経ったからだったっけ)。伊勢谷のいつもの演技も馴れたし、騎手を演じた吹石も様になってたよな、男女の微妙な心の動きとか兄弟、親子、いろんな人間関係をさらっと絡めてどろどろしないところなんかすごいなーと素人脳で感心してたけど、話自体が地味過ぎて映画に没入できなかったのが正直な感想である。だけど今作は竹内結子の復帰作として喧伝されてる部分があるものの、予告編の彼女の仕種は「黄泉がえり」「今会い」路線とは違う豪快さがあって、こりゃ役得っぽいなー計算高いなーなんて不遜に思いつつも、主人公はその彼女と交流する少女ということで(結局、トップクレジットは竹内だったけど)、そうなれば当然少女の成長がメインに据えられるは必定、この明快さ・すなわち磐石なストーリーがあるからこそ余裕が生まれる役者の魅力を期待していたわけである。
 弟の徹(川村陽介)が結婚する。もうじき三十歳になる薫(ミムラ)は、仕事の事なんかでいろいろと腐っていたけれども、徹から父や母の事を聞いて、さらに気が滅入りがちになる。なんだかいくつも波乱がありそうな家族。薫がその決定機を思い起こしたのが、小4の夏休み、初めて自転車に乗れるようになった頃、母(鈴木砂羽)の家出と、入れ替わるようにしてやって来たヨーコ(竹内結子)との交流である。
 ヨーコの素性は、どうやら父(古田新太)の愛人らしい程度しかわからない。ドイツ製のスポーツタイプの自転車に乗り、かっこよく、タバコを吸い、粗雑な面もあるけど、それがかえって男っぽい(まあ、この手の女性の造形としてタバコを吸うってのはほんとによくある設定だな。意地悪く言えば、ヨーコの男っぽさの性格付けは類型的なんだけど、これはこれでストーリーの安定化に貢献していなくもない。安定しているからこそ、役者をいろいろと動かせるし、話が破綻しにくいから、いろんな挿話を盛り込める)。初登場のインパクトは絶大である。ノックもなしに、家の中でなんかしてた薫(少女時代:松本花奈)の前に現れる。いきなり「オッス」だ。上がりこんで冷蔵庫を物色、夕飯を作りに来た(当初私は威勢のいい家政婦さんかと思ってた……)けど中には何にもないので早速買い物に。
 買い物シーンの大雑把っぷりがまた小気味いいんだよな。これだけで、いつも母に小言やらを言われてビクビクしている薫が、母とヨーコを比べてヨーコに惹かれるってのがすぐにわかる。好物のお菓子ムギチョコを買うところでも、2つの袋を差し出されてどっち買う?と促されても、もごもごしてしまう薫をよそにヨーコは2つ3つの袋を籠に放り込んでしまう。母の言いつけというか、母の細々した決まりごとは、薫の性格に多大な影響を与え、そりゃ10歳の子にしてみれば親の言葉は絶大な権力だからだけど、そんな母の言葉を相手にしない風にチョコを容器に移すとき、いつもお菓子を入れていたらしいガラスの容器を棚から出して持ったまま、近くの皿にさっさとチョコを盛って「ほれ、エサだ」と弟(少年時代:谷山毅)に渡すヨーコを不思議な目で見つめる薫は複雑な表情だ。ヨーコと母は、後に顔見知りではあったらしいことが知れるけれども、この時点ではヨーコが何者なのは一切わからず、そもそも何を生業にしているのか、父とは具体的にどんな関係なのか、それすらほのめかす程度で、ほんとに謎だ。それだけ少女の知りうる世界しか描かれていないってことなんだけど、だからこそ私は薫に感情移入できるし、ヨーコの挙動を見守る・観察することが出来る。
 自転車の練習をして、無事に乗れるようになると、川原の堤防を夕日の中、走る。「自転車に乗れると世界が変わるよ」というヨーコの言葉があったけど、ここから薫の世界は広がっていく。竹内の好演もあるし、松本花奈のきょとんとした顔のかわいさとか、古田の親父っぷりとの対比もあるし、役者がそろってる感じだ。
 コーラを飲むと歯が溶ける、石油は後30年でなくなるとか、子どもはみんな同じ事を言われて育つんだなー。そんなことって大人になればばかばかしい戯言とか子供時代はバカだったなーとか言うところに落ち着くんだけど、薫は真剣に考えてしまう・気になって仕方ない。そういう真面目さを対等に受け入れるヨーコ(これもまたカッコイイわけで。何気に太宰を読むシーンを挟むなどして、彼女の教養浅からぬところを描写し「人は正直であろうとすると無口になる」とか、武者小路実篤の一節とか、単細胞ではないことが次第に明らかになっていくヨーコの姿にも、私は次第に感情を込めていった)。父がいざこざを起こしてヨーコが「百恵ちゃん家を見に行こう」と薫を連れて夜の街に飛び出すとこになると、薫と対等であろうとするのがよくわかる。薫が並んで歩く時、父でさえ気付かなかった「その人の左側にいたい」心理を見抜いてしまうヨーコの眼力も含めて。
 で、そのいざこざが縺れにもつれて、結局ヨーコは父と手を切ることになった。「わたしの夏休みにも付き合って」と言ってヨーコと薫の小旅行が終盤のメインとなる。ここは原作にはないらしいんだけど、別れを予感しつつ濃密な時間を過ごす二人の関係は、二人が泊めてもらうことになるヒモノ屋のおっちゃん(温水洋一)と婆さん(樹木希林)がいみじくも指摘した、「親子というには歳は近いし、姉妹というには離れすぎ」。こういう関係ってなんて言うんだろう。劇中では、薫がかつて見た、主人の運転するサイドカーに泰然として自若し直立不動のまま座する犬の姿に象徴されている。飼われている訳でない、飼っている訳でもない。いつも左側にいる薫は、自立するにはまだまだ子供で無理だし、母親の躾の厳しさや父のいい加減さになんか辟易しているし、弟のガキっぽさというかバカっぷりにもうんざりだ。でも、私自身の存在を失わずに薫は薫なりの哲学をヨーコと出会う前から持っていた。ヨーコは薫の持っていた真面目さを自覚させたのだろう。そして交流を通して薫はヨーコの影響をじんわりと受けていく。
 離婚することになった両親、母と暮らすことになった薫は、父と別れる際、父のお腹に向かって頭突きを何度もする。ヨーコと母の修羅場で、ヨーコが強烈な頭突きで母を倒していたことを踏まえている。サイドカーの運転手を一度に二人も失った薫の悲しみが頭突きに込められているように思えた(この母の描写の冷たさってのもまた徹底されてるな……)。
 ラスト。現在の薫の挙動は、私にはヨーコそのもののように思えた。弟も詫びの電話で、彼は彼なりに少しは成長していたし。そして自転車に乗って街中を走るその姿は、自転車こそ違えど、確かに現在のヨーコだった。
 夏休みの課題の絵は、カメノテを獲って万歳をするヨーコの姿である。彼女が何者であったのかはわからないけれど、彼女が残したものを薫や観客は知っている。ひょっとして……? というささやかな予感をはらんで物語はYUIの主題歌によって締めくくられる。「大漁だー」。