ウシワカ・イズ・ヒア

映画「ヨコハマメリー」感想
企画・製作:人人フィルム
監督・構成:中村高寛
プロデューサー・編集:白尾一博 プロデューサー:片岡希
撮影:中澤健介 山本直史  音楽:Since(コモエスタ八重樫+福原まり)
テーマ曲:「伊勢佐木町ブルース」 歌・渚ようこ
主演(取材協力):永登元次郎 五大路子 杉山義法 清水節子 広岡敬一 団鬼六 山崎洋子 大野慶人 森日出夫 五木田京子 福寿祁久雄 松葉好市

 戦後まもなく米兵を相手にした娼婦で、老いてもなお街に立ち続けた女性がいた。彼女は白粉で顔を塗りたくり、白いドレスをまとって横浜を徘徊した。気位が高く、人と親しく話すこともない、時折漏らす声は異様に甲高く、彼女は多くの人に目撃された。彼女を知る人は様々に呼んだ、「皇后陛下」「きんきらさん」「白いお化け」、そして「ハマのメリー」。1995年師走に忽然と姿を消した彼女の存在は、都市伝説として語り継がれることになった。この映画は、彼女を知る人々のインタビューを通して、戦後の横浜という街の変遷を見詰めたドキュメンタリーである。
 で、私はそんな人がいたことなんて全然知らないし、まして娼婦でしょ。そんなの……そんなのとは言い過ぎかもしれないけど、門外漢の私にしたら、そんなのが街中を徘徊してて、それに遭遇したら怖くて逃げちゃうなーと無神経に思うのね。でも、彼女も生きてたわけだ、現実に。だから彼女と関わる人々も当然いた。私みたいな事情を知らない人間の無遠慮な雑言を背中に受けながら、町の名物として、年配者は懐かしんだり毛嫌いしたり、若い人は親とか祖父母からそういう人がいたことを聞かされ、決して広く知られることはないけど、良くも悪くも地元の景色に溶け込んでいた。何せ素性もわからないし、素顔を観た人もほとんどいない。いろんな人が登場してメリーさんのことはもちろん昔の横浜についても語るが、メリーさんが何を考え何を求めていたのかは全然わからない。この映画、実はメリーさんは登場しないと言っても過言ではない。インタビューで構成された本編、皆が皆、自分が知る彼女を語る、ただそれだけだ。映画はクライマックスに向けて起動しているように見える、というか娯楽要素として最後の見せ場は用意されているが、製作側はおそらくメリーさんの消息を知っていた上で撮影をしていたに違いない。その編集の仕方をあざといと言う向きもあろう。まあ私の勝手な思い込みだけど、私にはとにかく山場に向かって緊迫していくような感覚がなかった。
 そんな態度の私が終盤に映画に引き込まれてしまった。メリーさんは五大路子の一人舞台「横浜ローザ」のモデルになっている。地元ではたびたび公演されているこの舞台のラスト、メリーさんが横浜から姿を消したように、五大路子も舞台から客席に降り、出入り口からよたよたと歩きながら去っていく。この時五大路子にかけられる客の声は女優の熱演好演を称えるものではなくメリーさんへの感謝の気持ちなのだと五大自身が語る。衣服と化粧は白いくらい白いが、容貌や挙措は老人然とした五大の演技、舞台から消えた姿は、その舞台の延長であるかのように街中にのそりのそりと現れるのだ。一瞬、本物が歩いている、と思った。もちろん本物の姿なんて知らない。本編にはメリーさんの写真がいくつも挿入されるが、動いている彼女を捉えた絵はほとんどない。それに舞台の後だから、すぐに五大が演じている姿とわかる。だが、街の中の喧騒が止まったような錯覚・というより異様な空気がカメラに刷り込まれる。右端から白い塊が現れる、彼女を見ながら通り過ぎていく人々、互いにささやきあう年配者。ゆっくりと、今までのインタビューの流れを寸断する・映画の流れさえ分断しかねない間、画面の左端にたどり着くまでの短くも長い歩行、ドキュメンタリーとしてこの手段はいかがなものかという考えもあるかもしれないが、私はこの場面に、彼女に遭遇した人たちの感情に共鳴したのだ。錯角かもしれないけど、確かに感じた。彼女が住む町・ひいてはこの国ってのはこんな感じなのか。横浜の特異性ではなく、おそらくどこの世界でも、少なくとも日本なら普通に溶け込んでしまうだろう存在。
 そういや東京で初めて浮浪者を目の当たりにしたときはびっくのしたよなー。中には死んでんじゃないかって道の中で動かず伏せっている人とかいて、ちょっともそもそと動いて生きてた良かったって思ったけど。それとメリーさんを一緒にするわけじゃないけど、そんな浮浪者を避けるでもなく気にするでもなくスタスタ通り過ぎていく人々、これは他人への無関心なのか、それともそういう存在さえ受け入れられる町なのか、私にはわからないけど。
 作家の山崎洋子は白粉を「仮面」と称したが、あーそうかと、妙に得心した。仮面だから・素顔じゃないからメリーを演じることが出来る(メリーさんの本名は劇中で明かされている)。ということは、五大路子が演じたメリーと本物のメリーとの違いって何だろうか。いつまで娼婦をしていたか知らないけど、彼女が町を徘徊する日々はさすがに何十年もあっただろう。決まった場所で休憩し、決まった場所でコーヒーを飲む。誰かに声を掛けるわけでもなく、時々遭遇する知り合いとも素っ気無い会話をするにとどまり、施しは容易に受け取らず(まあ結局親切をした報酬という形で恵んでもらってたらしいけど)、歩く姿だけが多くの人に目撃される。彼女が何者であるのかはわからない。この二つを分かつものってなんだろうか。ドキュメンタリーの面白さの一端がそこにあるかもしれない
 さて、本編の事実上の主役は、メリーさんに最も深く関わっただろう一人、シャンソン歌手の永登元次郎である。癌に冒された身体で毎日多量の薬を飲みながら時には入院し、インタビューに応じ続ける。ある日、地元のコンサート会場の前で佇んでいたメリーさんに、私のライブに来ませんかと招待状を渡す。彼のコンサートはビデオで撮影されていた。歌い終わって客席から花束をもらう場面も撮られていたが、この時、花束を持ったメリーさんが現れる。彼女の数少ない動く絵である。ほんとに真っ白だよこの人……と私。会場は拍手で包まれる。これが縁でメリーさんを支えるようになる永登は、彼女にまつわるいろんな噂を否定することなく、静かに、ただ彼女との間にあった出来事を語る。それと平行して、彼女のいきつけの美容院で働いていた女性や、彼女の衣類を洗っていたクリーニング屋の夫婦、コーヒーを提供した店のオーナーなどが登場する。彼らの言葉により、噂とかそんなものの検証云々ではなく、ただひっそりと彼女の足跡が立ち上がってくる。
 彼女は何故姿を消したのか。真相はびっくりするほど単純なものだった。その真相に関わった人々のインタビューの後に、病身の永登の元にメリーさんから手紙が届く。気狂いなんじゃねーのとかいう噂もあったが、そういう根拠のない話は観る者の心からとっくに消え去っている。そして期待通りの展開、メリーさんに会いに行く永登をカメラは追う。映画も佳境、ついに映された素顔のメリーさんは、白粉でなくてもそれとわかる、けどびっくりするほど老婆だった。でもなんかすげー感動しているんだな、私が。なんで知らない人のドキュメンタリーがこんなに胸に迫るんだろうか。映画ってすごいなー。若き監督・中村高寛(なかむらたかゆき)とスタッフの熱意、インタビューに収められた人々の感情、そして永登元次郎の優しさ、こういう形にならないものもフィルムには焼きつくんだろうな。
(2004年3月に永登は死去。メリーさんも2005年1月に亡くなった。エンドロール後に1カットあるんでこれから観る人は最後まで席を立たないように)