映画「天然コケッコー」感想

映画「天然コケッコー」感想
 さて、漫画原作映画ということで。映画「天然コケッコー」。
監督:山下敦弘  脚本:渡辺あや  原作:くらもちふさこ
撮影:近藤龍人  照明:藤井勇  録音:小川武  美術デザイナー:金藤浩一
装飾:武藤順一(大晃商会)  編集:宮島竜治  音楽プロデュース:安井輝
プロデューサー:小川真司 根岸洋之  配給:アズミック・エース
音楽:レイ・ハラカミ  主題歌:くるり
主演:夏帆 岡田将生 柳英里沙 藤村聖子 森下翔悟 本間るい 宮澤砂耶/廣末哲万 黒田大輔 田代忠雄 二宮弘子 井原幹雄 中村朱實 渡辺香奈 斉藤暁 大内まり 夏川結衣 佐藤浩市

 素晴らしかった。見事な実写化だった。のんびりとかのほほんとか、いろいろと形容できるだろう原作の行間は、決して退屈と結びつかない繊細な空気によって映像化されていた。これほど淡々としながら・大きな事件も起きないし、物語的な山場が待ち構えているわけでもない少女の日常、村の日常が、観てて楽しくて仕方ない。原作のセリフを生かした脚本、主人公・そよの感情を大沢との交際を通して明らかにしていく構成、落としどころも見失わずにきっちりとラストを迎える。近年の漫画原作映画の中で「赤い文化住宅の初子」と並び、原作への敬意・脚色等全てひっくるめて最高だった。ていうか、漫画原作にこだわる必要なんて全くなかったよ。
 物語の舞台となる海を控えた静かな村。全校生徒6人の分校に、転校生がやってくる……原作があるんであらすじは省く。原作の中学生編までの物語と言えば、どこらで終わりか検討がつくだろう。
 本編の素晴らしさは、原作で貫かれた村への・学校への愛を描ききった点にある。冒頭、そよ(夏帆)のモノローグがある。彼女のモノローグは度々入るんだが、特に誰に向けたものであるかは判然としていない。観客のためのものであると思われていた。だが最初からして、どうも妙な違和があった。全校生徒を紹介する彼女の語りからして変なのである。転校生として登場する大沢(岡田将生)に向けられたものか、観客へのものか、そんなところだろうと思っているところに、何者かに・誰かに話しかける口調なのである。あれ、このモノローグが大沢にみんなを紹介する流れに繋がるわけではないのか……
 この語りかけはラストで明らかになる。いきなりネタバレするけど許せ。
 高校進学の祝いとして誰もいない教室で大沢にキスをするそよ。なかなか上手く出来ないぎこちなさに私は少し笑う。「愛がない」と言って怒る(照れる?)大沢はそそくさと出て行ってしまう。だが彼女は追いかけない。慈しむように教室を眺める。壁に貼られた剥がれ落ちそうなプリントを元に貼りなおす。そういえば、この教室に入ってくる場面からして、室内の備品を撫でるように微笑みながら大沢の下に近付いていったっけ。さっちゃんより下の子がいない村。ある日の給食で大沢はあっさりと言っていた、「廃校、潰れるんじゃね」と。原作では、そよがいずれこの学校に教師として戻りたいという意志がはっきりと描写されていた。映画ではそこまで描かれていない。何せラストでやっと高校に進学したばかりなのだから。だけど、ゆっくりと姿を現していく廃校という現実は、校舎に注がれる視線・映像によって様々な角度から映される学校が、そよにとっていかに大切な存在であるのかを訴えていた。今ここでそれがはっきりと意識された。そよは、黒板に愛のあるキスをするのだ。もちろん原作にもこの場面はある。とんでもないものを見せてしまって、というそよのモノローグが入ると、ああそうか、冒頭のそれも、この校舎ひいては村に向かって語りかけた言葉だったのかと気付く。なんでもない日常・なんでもない物が、とても愛しい存在になる。廃校以外にも無医村、過疎化といった問題があるけれども、そうした大人の視点は、映画にほとんど介入しない。合間に入る村の景色はきれいだ。そよの視点が貫かれていることが映像によって描かれていた、そよの気持ちは、あれらの景色に感じる観客と同一化しているのである。
 黒板のキス後、場面は誰もいなくなった教室内をゆっくりとじっくりと映し始める。夕暮れだった影が、しだいに明るくなり、カーテンは風に揺れる。開かれた窓、そこから顔を出していたそよ。伊吹たちに呼ばれて校庭に戻る彼女は高校のセーラー服姿だった。時の流れを描きつつ、この視線はそよのものだったのだ。冒頭、そよに語りかけられた観客は、そよを客観視しながら見ていた。少なくとも語りかけられた私たちは学校や村の穏やかな風景だった、景色がこども達を見守っている、そんな感覚もあった。そこからそよをはじめとしたこども達を眺める。そんな構図から始まったはずだった。
 たとえば東京への修学旅行で大沢は、東京の友達から、今度建て直すというかつて大沢が通っていた校舎の一部(コンクリート片)をもらう。冗談だよといってその場にうっちゃっていく大沢だが、そよはその大きな塊を持っていく。この挿話は、そんな重いものを持っていって挙句疲れて倒れてしまうというオチに繋がるわけだが、彼女が学校をいかに大事にしているかを思い起こすと、ただ笑って済ませられる場面ではなかった。この後彼女は、村から海への道程で聞こえてくる山のゴウゴウという音を都庁前を歩く時に聞くわけだが、村や村人・そよの場合は篤子や伊吹に弟という具体的な存在に置き換えられるけど、あれほどのんびりとした村と忙しない東京を比較させながら、この場面はそよが村の中を歩いているような静けさに観ている者を落とし込んでいく。
 そよへの同一化はラストで果たされる。日常のなんでもない出来事が大切に思えてくる、そよと一緒の気持ちになることで、何気なく観ていた場面場面や役者の何気ない仕種・何から何までが、とても愛しい存在に切り替わってしまったのである。「もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思やあ、ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう」。主題歌がはじまってエンドロールが流れ始めると、そよのこのセリフこそ、まさにこの映画に相応しいように思えてきた。もうじき映画が終わり、本当の暗転が来る。いろんな場面を反芻すると全てが輝いて見えた。最後の最後で鶏小屋の中を笑いながら見つめるこども達の姿が忘れられない。