映画「ポエトリー アグネスの詩」感想

映画「ポエトリー アグネスの詩」感想
 川の中州で遊び戯れる子どもたちの声と川の流れの音が交じり合う。やがて一人の子どもが、流れてくる何かに気付き目を留めた。次第にはっきりしてくる漂流物は、女性の遺体だった……
 イ・チャンドンの最新作「ポエトリー」の冒頭である。前作「シークレット・サンシャイン」、前々作「オアシス」と続けて私を打ちのめした監督作品だけに期待値はとても高かった映画だが、いつもながらに期待以上の素晴らしい映画だった。

※ネタバレ注意。未見の片は以下を読まないで欲しい。

 今回の主人公は66歳の老女・ミジャである。カラフルな服を着て、おしゃれでかわいらしい。ちょっと世間知らずなんじゃね? と思えるほど彼女には少し浮世離れした雰囲気がある。イ・チャンドン監督の全ての作品において、私は主人公に感情移入することを拒まれている感覚を持っているし、それは特に「オアシス」で顕著だったけれども、今回の老女にも、なかなか共感できそうなところがない感じだった。もちろん、そうしたキャラクター造形が、この監督の持ち味でもある。主人公を見守る傍観者に観客を追いやることで、主人公の感情に同調できないことに対する強烈な悔しさみたいなものを中盤以降の展開に用意しておくのである。果たして、今回はどんな仕掛けがあるのか?
 画面はミジャが病院で待っている様子に変わる。思い返せば、すでにこの時から彼女のちょっとした異変は描かれていたわけだが、診察をすることで、観客は彼女がいずれ直面するだろう危機を予測する。認知症だ。最近物忘れが激しい、特に単語が思い出せないと言う彼女の病名は実際に終盤でそう明かされるわけだが、言葉を忘れる彼女が、ひょんなことから詩の講習会に参加するのだから、何かしら言葉がというものが、この映画のテーマに関わってきそうだなと感じさせる。
 多くの人々と教室で詩を学ぶ彼女は、詩が書けませんと訴えた。詩人でもある先生は、物をよく見ることです、そうすれば言葉が出てきます、と教える。普段何気なくやり過ごしているさまざまな出来事や物をつぶさに見つめることで、詩が湧いてくるというのだ。
 ミジャは孫の中学生の男の子ジョンウクと二人暮らしである。彼の母親・つまりミジャの娘と暮らさない理由ははっきりしないが、生活スタイルを見る限り、彼女は決して裕福ではなかった。むしろ貧しいといってもいい。だから、悪く言えば派手な服装を着ている彼女の外の姿とのギャップが大きいだろう。これが彼女の世間知らず感という先入観を私に強くさせた。
 いや、実際彼女はあまり世間の逆風をそれと感じないようなどこか鈍感さがある気さえした。けれども、孫のジョンウクに対しては何かしら感じるものがあった。冒頭で描かれた遺体は、孫と同じ中学に通う女子中学生・ヒジンだったのである。ミジャは素朴に尋ねた、自殺した母親に病院の帰りに会ったわよ。冒頭に併せて、実は病院からの帰りでヒジンの死を嘆き悲しむ母親の姿が映されるのだが、ミジャの言葉で、やはりあれは少女の死を嘆く母だったのかと理解すると同時に、何か不穏な気配がないわけでない。関係があるんじゃないだろうか……こうした私の予測は見事に当たる、ジョンウクとその仲間たちは、ヒジンの自殺の原因となる性的暴行を長期間に渡り行っていたのである……
 ところが、こんな重大な事実が発覚しても、ミジャの態度はあまり変わらない。いや、感情が揺さぶられたのは間違いない。何故そんなことをしたのかと孫を詰問するシーンもある。さらに、学校側と相談した仲間の親たちは、自殺した中学生の母親と示談を画策し、お金を用意して警察沙汰にはしないように話し合いを繰り返すのである。ジョンウクの保護者であるミジャもその話に加わるのだが、どうにも納得できない。それは正義感とかそういう類のものとは違う。
 自殺したヒジン(洗礼名を「アグネス」と言う)の慰霊ミサを不意に訪れたミジャは、彼女の死にショックだったのか、自分の孫がそれに関係することに対する衝撃なのか、ヒジンの顔写真の入った小さな額を盗み、後に食卓の上に置くのである。何も言わない孫……
 ミジャの哀しみは実に単純でわかりやすいのだが、それでもこの物語が一筋縄でないのは、彼女が認知症だという事実である。彼女の症状は時折描かれた、「財布」という単語を思い出せないシーンがあった、示談金についての話し合いの最中、不意に外に出て道端に咲いている花の色鮮やかさを笑いながら話すシーンもある。どこか彼女の言動には、本当にそれが本心からの言葉なのか信じられない面があるのである。詩の講習会での彼女も、他の生徒が静かに聞いている中、ずけずけと、どうしても詩が書けませんと訴え続ける。有志で行われている詩の発表会にも参加し、そこでもどうすれば詩が書けるのかと知りたがるのである。ヒジンの自殺に対する衝撃と全く交わらない無邪気な詩作を試みる笑顔に、不安がこみ上げてくるのである。
 彼女はメモを手に街中を歩き回り、思いついた言葉を書き、詩を作ろうとした。自分が認知症であることを知り、途方に暮れるほど絶望感に打ちひしがれたような表情もする。実際、劇中のミジャは思いがけない行動(しかし、それも示談金を捻出するための手段と考えれば、予測の範囲内でしかなかった)をするけれども、不安定な彼女の言動は、物語そのものを不安にさせていく。一体、この物語はどうなってしまうんだろうか……
 そんなある日、示談になかなか応じないヒジンの母親を同じ女性同士(他の保護者はみな父親と思しき男性たちである)、説得してくれませんかと言われるまま、ミジャはヒジンの母親を訪ねるシーンが始まる。
 ミジャとヒジンの母親の会話はなんの他愛もない内容である。ほとんどミジャが話し続け、道中でひろったアンズがどうのこうのと語るだけだ。そこで閃いた詩の断片もいたく気に入った様子である……世間話を終え、きびすを返して帰るミジャは、ようやく本来の目的を思い出すのである。
 ここに、例の仕掛けを感じたのだ。今回は静かにやってきた感じである。うっかりしていると見過ごしてしまいかねない小さな変化は、スクリーンに・台詞の端々に、おそらくたくさんあったに違いない。だが、ここではっきりするのである。ミジャの言動の不確かさを! 自分のことのように悲しんだヒジンの死……それさえも忘れてしまう! 忘れてしまうのだ。そして、事実、示談で事件をなかったことにしようとしている人々に加担している自分がいる。忘れないはずの感情さえも自分はいつか忘れてしまうことを知ってしまう。
 忘れていく言葉や感覚に対し、しかし、詩という言葉によって、あの時の感情を確実に遺すことが出来る。彼女が紡いだ言葉の衝撃はラストで味わえた。正直、私はむちゃくちゃ感動した。詩の内容はもちろんだが、彼女の詩は、物事を真摯に見詰めなければ湧いてこない言葉の連続なのである。事件の隠蔽や孫に対する呵責なんていう私の平易な予測なんぞ受付やしない。そんなのは簡単に超えていた。ミジャが見詰めたのは、自殺する日のヒジンでありヒジンの気持ちだったのだ。ラストでもう一度衝撃に打たれるとは思わなかった。エンドロール後も流れ続ける川の音が冒頭につながるのは言うまでもない。もちろん子どもたちの声も小さく聞こえてくる。実際は、カメラはただ川の水面からヒジンが身を投げたと思われる橋を遠くから映し続けているだけなのだが、なんとなく、あの時遺体となって流れていた彼女そのものになったような気分になり、ラストのラストになって、これまで共感を拒んでいたキャラクターに、主人公のミジャではなくヒジンに感情移入していた自分に驚愕するのである。