仁志安売り

 夏目房之介マンガ学への挑戦」を読んだ。
 なんか今ひとつ物足りなかった。「マンガは誰のものか」という設問を軸に夏目氏自身の批評史を辿りながら、マンガを語ることの歴史をまとめているんだけど、いや、まとめているのは大変な作業だし、季刊「本とコンピュータ」2004年春号の中で似たようなことをインタビューで応えてて、そのとりあえずの集成がこの本というわけなんだろう、ていうかそうなのだが、なーんか釈然としない。簡単にまとめるとね、夏目氏の前の世代、世代的に言うと内向の世代とかその辺、戦前戦中派かな、その人たちが語る反映論に対する反動から私語り・読者回帰が団塊の世代を含む戦後から10年くらいの世代に始まって、またまたそれに対する夏目氏が言う違和感から表現論が生まれて、今はその三つがこんがらがっているという状況ということかな。それをひとまとめに批評の歴史としてちゃんと論じようぜ、というのがこの本の大雑把な趣旨で、牽引役が「マンガは誰のものか」という問い掛けという次第なんだが、まず何が足りないって、若い世代がどうなっているかなんだよ。引用されてた宮本氏や瓜生氏にしても30過ぎてるし。まあね、20代30代には漫画を公で語る場がない、という訳があって、それは結局彼ら世代の力不足が原因なんだろうし、夏目氏には、上の世代が個人的に培ってきた批評史を若い人たちにも共有させて、みんなで考えようという目論見もあるんだろう、そういう点では、ほんとにこの本はマンガを語りたい人・これから語ろうとする人には是非とも読むべき本だと思う。
 で、これは私個人に還元してみるとだね……勉強にはなったけどつまんねーんだよ。教科書だよ、ほんとに。結構苦痛だった。批評のための「地図がほしい」とかつて語ってた夏目氏は見事にその仕事をやり遂げたわけだが、私はちょっとショックだったね。なんかこっち行っちゃったかって感じ。こっちがどっちで何かは言葉に出来ないもどかしさがあるんで、感情的なもんですまないんだけど。
 私は平凡に感想文からこのサイトをはじめて、読み手として感じたことをつらつら書いてきた。途中から表現論の真似事もしてみたし、マニアックな分析も試みてきた、夏目氏の著作を参考にした批評もやってみた。けど、最後はどこに帰るかって行ったら、やっぱ素直な感想なんだよな。こうの史代「夕凪の街」の感想を書いた後、いろんなサイトの感想を読みまわったんだけど、みんないろいろと個人的な思いを綴っているし、私も例外ではない。やっぱいろんなことを考えてしまう作品だよなと実感した。そこから反映論にもってく人もいるだろうし、表現論にもっていく人もいるだろうし、私語りに終始する人もいるだろうけど、出発点は読み手の第一印象に依拠していると思うよ。そこに閉じこもってしまうのも窮屈なんで、あっちこっちに思考をめぐらせるんだが、どういう方向に行くにせよ、原点はそこだと思うよ。「BSマンガ夜話」だって、最初の取っ掛かりはいつどこでなんで読んだか・そしてその時の印象だし批評の出発点もそこだと思う。
 そこから読者の主体に立った表現論の限界ってのが出てきて、そこでもがいていることが若い批評家が出て来ない原因なんだろう。まあそれは実感するよ。自分で表現論もどきやって、その難しさに逃げ出したもん。で、夏目氏は本の中で、読みの多様性を甘受せざるを得ない読者側からの表現論の茫漠性を指摘して、作者側からのアプローチも必要だと述べている。
 私は読者側からでもその限界は突破できると信じているよ。「読む」以前の「見る」という行為に着目した文章を前に書いて見事に座礁したけど、まだ諦めちゃいないよ。もちろん時には作者は何考えてこれ描いたのかなって考えることもあるし、きっとこうだっていうのを見付けて、文章にすることもある。もともと分析好きだしな、だから伏線探しもやっちゃうし。伏線は作者が隠した物語を解きほぐすための手掛かりだからね。そういう点で、私は夏目氏が最後にまとめたモデルでいうと、受容論モデルの段階なんだろうな。そもそも社会論とか世代・時代論は信用してないから、嫌いだからそっちに行かないように自分で制御している。制御するってことは、実はそっちの批評ほうが簡単なんだよ、自明な物語を分析するだけだから。表現論の困難は線に込められた意味を探るところまで行かなきゃならない精緻な作業を要するので疲れるけど、反映論は自分の哲学をそのまんまマンガを媒介にして語ればいいわけで、まあそれはそれで難しいところはあるんだろうけど、恐れながら両方やってみた身としては、表現論のほうが難しいし、だからこそ面白いんだ。
 書いてて気付いた、本当は何が足りないって、「見る」という視点だよ。これは批評という枠組みから外れてしまうし、脳の問題が絡んでくるから難しいけど。そこでアフォーダンス理論なんてのもありえるんだけどね、マンガにはもともとあらゆる情報が描かれていて・作者さえ気付いていない情報が埋め込まれていて、読者はそこからいくつかの情報を見つけたり掘り出したりして、物語をつむいでいく、て前にも似たようなこと書いた気がするが、得られた情報は読者にとって、それが作者が意図したものかどうかなんて関係なく等価値に存在してる。……なんか訳わかんなくなった。慣れないことするもんじゃないな。
 まあ、いろいろ考えたけど、私は読者からの視点でしか語れない、無理して社会学者ぶるのも嫌だし、マンガをマンガとして語っていきたいよ。だって一読者だもん。