「カミュなんて知らない」の不思議な体験

 現在公開中の映画「カミュなんて知らない」(柳町光男監督)、「ホテル・ルワンダ」を観てなければ、おそらくこの映画についての感想を本サイトかここで語っていただろうと思われるが、せっかくなんでここに書く。で、何が面白かったのかというと、物語の構造がある。大学で映画を撮る若者たちの姿を、監督(柏原収史)と助監督(前田愛)を中心に描いた青春映画である。こと恋愛描写に関してはかなり下品な印象を抱いたが、それはまあ置いといて、当然映画の中で撮影される映画・劇中劇が物語の軸になっていく。で、映画はクランクインまでの一週間を描いているので、劇中劇の内容はリハーサルの内容から類推されることになるのだが、当の劇中劇が、実際にあった事件をモデルにしているのである(劇中劇のタイトルもその事件に取材した本のタイトルになっている)。
 その事件とは、人を殺してみたかった、と言う高校生が老女を殺害した2000年に起きた刺殺事件である。映画は数多くの名作映画から場面が引用されているようで、その辺のことはわからないが、この虚構の物語世界の中にある現実世界っていうのが奇妙で、ずっと変な気分だった。架空の大学生たちが撮る現実の事件、劇中劇の設定の方にリアリティを感じてしまうせいか、大学生たちに類型を観てしまうのだ。熱血漢ぽい監督、きびきびと立ち回る助監、オタクを想起させる製作、筋肉質の撮影、主役の高校生を演じる女性っぽい青年、極めつけは監督に全ての愛を注ぐ恋人で、彼女を演じるのが吉川ひなのなのだ。彼女の狂信的な恋愛観は、監督はもちろん周囲のスタッフも慄くほどで、ほとんどありえない世界である、しかも吉川の甘ったるい声とくれば、この大学生たちに親近感など湧かない。そして映画のタイトルから予測できるようにカミュの「異邦人」が小道具として引用されると、場面の一つ一つ、セリフの隅々までが、一層作り物めいてくるのである。だから劇中劇が際立ってくる。陰と陽が逆転するみたいに。
 ところが、異物感はラストの大回転で見事に昇華してしまうのだ。ネタバレを含むので、曖昧な物言いになっちゃうけど、虚構と現実がごちゃごちゃになるのである。で、本来描写って現実的であることに重きを置きがちなんだけど、この映画は、むしろ虚構であることに重きが置かれているような感じで、それは全編が引用に覆われていることからも察しがつくんだけど、ただひとつの現実感だった劇中劇の内容までもが観るものに虚構化を目論んでくるのである。あー、ネタバレ出来ないから書いてても意味わかんねー。
 映画の中では、劇中劇の内容が微妙に各登場人物に影を落としていくのね。現実が虚構に浸透していく感じ。だからステロタイプな大学生たちが、実際に起きた事件の映画の撮影の準備を進めていくに従ってあれこれ考え始めるものだから、観ているほうも自然と考えるのだ。特に監督と助監は主人公の演じ方について真っ向対立する、彼が老女を殺す時の目は異常だったか正常だったか、と言ったような学生らしい議論に同調し、人物の視線に加担していく。でもやはり吉川ひなのが強烈だな、彼女の演じた役自体がほとんどファンタジーだし、彼女の声質も劇中劇のテーマとかみ合わない。ひょっとしたら、この映画にすげぇ適役なのかもしれん。彼女が登場すると、だから虚構に引きずり戻されてしまう。せっかく不条理に踏み込みつつあった学生たちの態度が、一変に白々しくなる。現実と虚構が淡く交じり合った状態が保たれるわけである。
 登場人物たちは課題として与えられた題材で映画を撮る、つまり自主映画という趣よりも、合同研究という意味合いが強い。授業の一環だ。そのためか、彼らは非常にだらけている。映画についての熱い議論はほとんどみられない、彼らは無邪気に映画の知見を披瀝し、または己の映画観を恥ずかしげもなく口にする。そして羞恥心を欠いた恋愛感情・特に吉川演じる女性には嫌悪すら覚える。役者は与えられた役を「演じている」に過ぎないことがあからさまになっている。ところが劇中劇の不条理殺人が、彼らに個性をもたらす。撮影に臨む態度や演技指導のやりとり、予算のやりくりなどから、彼らの生活観・人生観が浮かんでくると、好きなキャラ嫌いなキャラが自分の中に生じてくるのである。それでもって、彼らは劇の主人公の高校生の心情にも接近する。「実験」のように殺人を犯した少年、その気持ちを理解しようとするかのように彼らなりの実験というにはあまりに無邪気な言動が展開される。そしてクライマックス直前の急展開は、彼らの実験精神を映画全体にまで波及させてしまい、これがラストの大回転につながるのだが、入り組んだ虚構と現実は、それでも「これは映画だ」という意識があるのでどうにか理解の範疇にあるものの、エンドクレジットにおいて更に事態は急変する。私の深読みに過ぎないのだが、そこでは撮影の「後片付け」が延々と流される(括弧書きにしたのは、その模様がネタバレに触れるからで深い意味はないよ)。ここでまた私は混乱した、これは今観ている映画の撮影の現場なのか、劇中で映画を撮影する彼らの現場なのか、両方とも言えるようで言えない。普通に見ていれば後者なんだけど、前者でもおかしくない。
 この映画は引用のつぎはぎを基調とし、そこにひとつだけ現実に起きた刺殺事件がぽちっと挿入されていた。事件は彼らにとっては当初こそリアリティをもたらさないが、関わっているうちに知らずリアリティに侵食されていくと、彼らの個性が際立ち始め、物語が動く。やがて映画全体がひとつの塊になって虚構と現実の境界に迷い込んだ観客を襲撃する、戸惑う観客は「これは映画だ」という意識を強くするだろう(前述した虚構化のことね)。それはつまり反作用としての現実感を一方で感じているからだ。虚構であることを前面に出すことによって、背後に確かな現実を獲得するのである。
 ……自分でもよくわかんなくなったので、この辺で。要は面白く観られたってことについて理屈をこねてみただけなんだが。しかしネタバレできないのって辛いね。