同人誌で(中略)個人的メモ2

 マンガ情報論と仰々しい言い方をしたが、まだまだ判然としない不確かなものに対し、アニメとの比較は自分自身楽しんで書いてきたことだ。原作となったマンガとその映像化を比べることにより浮かび上がってくるマンガの間とアニメの間。フラッシュなんかでもやってきたことだけど、同人誌ではもっと盛んに行ったことのひとつであり、個人的にかなり手ごたえのある考察である。
 「絶望先生」の時は、アニメ化によって変化したキャラクターの目の描写に着目した。まさにアニメ化以前と以後に分けられる作品である。巻末に収められた似顔絵から、その投稿者がいつからのファンなのかも推察できてしまうだろう。
 「新世紀エヴァンゲリオン」の場合は、アニメが原作ということで、貞本義行が映像をどうマンガという媒体に定着させていくのかを観察したつもりだったが、よくよく読んでいくと、貞本エヴァがアニメでは描かれなかったシンジとレイの関係に焦点を当てていくことが、シンジの手を握るという行為によって象徴されていったことがわかっていった。貞本エヴァの原作と異なるストーリーの大きな変更点は、アスカを早々に退場させ、カヲルとシンジの交流にページを割いたことが挙げられるけれども、これにも明確な意図があったことが導かれる。カヲルの登場は、子猫を絞め殺す、という衝撃的な手の所作から始まっている。シンジとレイの関係は原作に準拠しつつも次第に、シンジがレイに触れることに彼女が意識し始めることにより、最終的には意志を持ってシンジと握手をするレイにまで発展した(もちろんこの場面も原作のアニメにはない)。哲学的な考察はよくわからないけれども、他人を理解する行為を握手(レイ)と絞首(カヲル)によって対比させたことで、シンジは自分の手で直接触れることで始めて理解できる他人との関係を知った。使徒・カヲルとの関係をシンジはどう決着つけたのか、今更語るまでもない。
 「ルート225」では、同じ小説原作をマンガではどうか、映画ではどうなのか、というちょっと変わった比較をしてみた。単に映画の話をしてみたかっただけってのもあるが。多部未華子知名度上がってなにより。
 「あずまんが大王」では、この作品が持っているゆったりとした時間の流れを「なでなで」というネタを例に考えた。読めばほんの数秒で読み終えられる4コマをアニメは数十秒という視聴者が確かにこれは長い、と感じるだろう時間にまで引き伸ばし、榊の忠吉さん好きを強調した。アニメが時間と言う制約にどれほど苦心しているのかが計り知れるのではないか。
 「蟲師」では、フラッシュでもやったことを加えつつ、やはり原作のコマとコマの間がどのようにしてアニメという時間の流れに変化しているのかを観察した。原作に忠実と世評が高いアニメだし、私も大好きなアニメだが、想定線を意識しながら原作が持っている間をキャラクターの距離感などで動かすアニメ「蟲師」の素晴らしさが一層わかった考察だった。また、逆にアニメの影響を受けたと思われる原作の描写にも着目し、連載初期にあった少女漫画的テイストが、映像的に・特にキャラクターの動作を強く意識したコマ構成になったというあたりを推察してみた。
 アニメとマンガの比較はニコニコのおお振りでもやったが、ポイントはやっぱり「時間」ということになりそうだ。