同人誌でこつこつ書いてきたことをまとめる個人的メモ

 2007年の11月から個別の作品の感想を中心にしつつ、マンガってなんだろうということについてもちびちびと考えて、それについての持論みたいなものを展開してきた。散発的に書いてきたサイトの記事をまとめつつ、近頃になってようやく形になってきたそれらを備忘録代わりにメモしておく。
 基本はマンガ情報論。まあ、マンガ黒白論でもいいけど。数年前からマンガの考察で有効ではないかとのんびりと勉強していたアフォーダンス理論の自己解釈を下敷きに、あずまきよひこの言葉と、高野文子の発言などをブレンドしたシンプルを目指すマンガの分析理論もどきである。とかく複雑になりがちなマンガの要素を、黒と白の二つだけに絞って考えると、意外とすっきりとマンガで何が描かれているかが見えてくるよ、という話だ。オフ版第4号で結構真面目に考察してみたことなんだけど、うん、これは単純でごちゃごちゃしないぶん、従来のいろんな理論よりわかりやすいと思う。まあ、私自身複雑な考え方についていけないからなんだが、ここで高野文子の発言を引いてみる。鶴見俊輔との対談で語ったことだ。
「私は長いこと、漫画は、文学のお父さんと絵画のお母さんの間に生まれた子どもだと思っていたんです。理屈っぽいお父さんと、ふわふわ柔らかいお母さん。(中略)でもこの、色を嫌う習性のことを考えたら、お母さんが絵画って説は、あやしく思えてきました。もしかしてお母さんは、物理? 数学?(後略)」
 唐突だが、「バクマン。」1巻をとても楽しく読んだ反面、なんかもやもやした感覚がずっと残っているんだけど、それはマンガは絵とお話で成り立っている、という考え方への素朴な反感が元になっているからだと気付いた。高野文子は、鶴見との対談でキャラクターの顔が書けないとも語っている(新潮社「考える人」季刊誌2008年夏号より)。なんか、見るのも嫌だと言うから、相当なもんだ。一年前の対談なので、今、高野文子がどういう状況なのかはわからないけれども、楽しいお話と優れた絵があれば、面白いマンガが生まれるというのは、あまりに乱暴すぎるのかもしれん。
 というわけで、黒と白なのである。線が多ければ・黒が多ければ情報が増え、線が少なければ・白が多ければ情報が減っていく。だからといって、真っ白は情報量ゼロではないし、真っ黒が情報量無限というわけではない。むしろ真っ白が情報量無限、真っ黒がごくわずかな情報量なのではないかと、根拠はないけど考えている。
 同人誌でたくさの画像を引用するために、スキャナーを購入していろんな場面をスキャンしているのだけれど、印刷された時のことを考えると、画像はモノクロ化したほうがきれいに仕上がりやすい。下手にグレーなりカラーなりで入稿すると、変に網かかったり、モアレになったり、最悪小さな絵は潰れて真っ黒とか真っ白とかいう事態にもなりかねないわけで。そんなときに、モノクロしやすい絵と、しにくい絵というものに幾たびも遭遇した。
 基本的に当然だが書き込みが少ないほうがスキャンしやすい。だからといって、細い線でキャラクターとかが描かれている場合は、またそれはそれで加工に手間がかかる。要は黒と白のバランス次第と言うわけだ。
 「あずまんが大王」「GIANT KILLING」なんかはスキャンしやすかった。「あずまんが大王」は白黒でスキャンしてもいいんじゃね?っていうくらい黒と白がくっきりしていた。それだけ情報が整理されていると考えるのは単純すぎるけれども、やっぱり「よつばと!」になるとまた少し面倒になったので、画像の加工にかかる手間からも、情報量の変化を実感できる。「ジャイキリ」も書き込みが多く、一見難しいように思えるかもしれないが、キャラクターの線がはっきりと引かれているだけに、背景に多少犠牲になってもらえれば、割とくっきりとスキャンできた。一方、「天然コケッコー」「蟲師」なんかは苦戦した。基本的に線が細いのだ。「蟲師」の蟲なんか線がもやもやしているし、天コケの背景は、写真を流用するなどして写実的な分、キャラクターを際立たせるために、やっぱりもやもやしたような雰囲気の画像になっていて、印刷の結果は惨憺たるものだった。実際にスキャンすることで、マンガの中にどれだけの情報量が書き込まれているかを体感できるのは発見だった。もちろん私の未熟な腕も一因なわけだが。
 ここでいう情報っていうのは、絵とか言葉といった区別に支配されない。単純に、作家がそこにどれだけの情報(線・文字)を描き込んだのか(あるいはあえて描かなかったのか)、という点のみを考える。具体的な話をすると、輪郭の線の質である。
 くらもちふさこは「天然コケッコーの散歩路」のインタビューの中でペン入れのブロセスを解説している。そのときの言葉を引用しよう。
「(引用者注・上図に天コケの一場面の下絵があって)下描きにたくさんの線を描くのは、(中略)線が見つからないんですよ。線を探しながら描いているせいだと思います。何度も何度も線を重ねていく内に「コレだ!」って見つかるんです。」
 線がガッチリと決まるまでに一時間以上はかかるという。下書きのキャラクターには、鉛筆でいくつも引かれた線が輪郭を縁取っている。たくさんの情報がそこにはある。そのままだと、キャラクターにとって相応しい一本の線を読者が選択することになるだろう。ラフ絵が上手く見えるのはそのせいかもしれない。でも、一本の線を作家は選ばなければならない。幾多の情報から一つだけ搾り出すことの苦労が見える。読者は、その苦労の果てに得られた線という情報からキャラクターの外見という情報を獲得する。
 もっとも、読者は作家が描き込んだ情報を全て読み取れるわけではない。何度か書いてきたことだけど繰り返すと、読み取った情報量の差異が読解に個人差を作り、感想に隔たりが生まれる。作家によっては、線という情報をあえて捨てて、言葉に重きを置く場合もあるだろう。魚喃キリコが好例だ。もちろん福本伸行だってそうだ。
 「ざわ…ざわ…」。あれは、くらもちふさこが語るところの下絵の段階では何重にも引かれていた輪郭の線のなかから見つけた一本の線なのだ。絵の描き込みによって周囲の空気を演出することも出来るだろうけど、福本伸行は、そういう雑多な情報を潔く捨て去り(描けないだけなんだよとか言うな)、あの言葉を一本の線として・情報として選び取ったのである(ホントかよ)。
 そうやって幾多の苦難を乗り越えて取捨選択された情報としての線が、マンガとして提出された時、読者は何を読んでいるのか。ここから、不勉強ながらアフォーダンス理論を元にしたマンガ情報論のクライマックスへと至る。続きはまた機会があれば。