映画「ディア・ドクター」感想

映画「ディア・ドクター」感想
 西川美和監督の三本目の劇場用長編映画は、高齢者が目立つ無医村に村長から高額の手当てを保障されてやってきた医者が主人公の、ある程度そうであろうことが予想される物語である。
 思えば過去2作品も犯罪に関わる物語だっただけに、人のあり方に罪を犯す・というよりも人が作った法よりも人としての何かの矜持というか生き方みたいな、曖昧だけど、そんなものに興味があるのかもしれない。というわけで、医者を演じる笑福亭鶴瓶へ印象に加えて「その嘘は、罪ですか」というキャッチコピーにより鑑賞前から、モグリの医者なんだろうという予想があったし、事実、彼はモグリだった。物語は、重大なネタバレになりかねないヒントを観る前から散りばめながらも、その事実に至る真相をじっくりと描き、そして何故彼がそこまでして村人の診察に誠意を尽くし続けたのかを、実に簡単な理由で説明し、なおかつ深い余韻をラストにもってくる手際は、もう感服せざるを得ないと書くと偉そうだけど、もう西川監督すごいっスとただ激賞するしかないんである。
 たとえ話をする、簡単だ。医者がある患者を胃潰瘍と診断した、でも後で家族をそっと呼んで実は胃がんで余命幾ばくもないと告げる……ドラマでも見たことあるような話だろう。では、この話に対して、医者や家族は患者に嘘をついている、嘘つきだ!と責め立てる者はいるだろうか。そんな話見たことないし聞いたこともないわけだが、まずいないだろう。だが、その医者が無免許医だったらどうだろう。患者や家族を慮って告げた言葉は本物の医者とまるっきり同じであっても、無免許というだけで、彼は責められてしまうだろうか。もちろん警察は彼の違法行為を見逃したりはしないはずだが。
 映画は冒頭から彼・伊野治が失踪し、警察が捜査する今現在の時間と、彼が村で行ってきた医療・村人からいかに慕われていたのかという過去の時間を並行して描き続ける。過去の物語はゆっくりと今の時間に近づき、彼が何故失踪しなければならなかったのかが、モグリであったという事態を通り越して、一人の医療行為をした人間と診られた側の人間・医者と患者ではなく・人と人の直截な関係性を浮き彫りにさせていく。
 「蛇イチゴ」では、破産しそうな家族の下に大金を持ってきた長男がふらりと戻り、息子に頼らざるを得ない両親と、その金が盗んで得たものであること知った妹の関係をスリリングに描いた。兄(宮迫博之)の金に頼らざるを得ない親と、兄を全く信用していない妹(つみきみほ)という構図は、村でたった一人の医者に頼らざるを得ない村人と、医者がモグリであることから全く信用していない刑事という構図へと大きく広がりを見せたわけだが、それらを過去と現在の時間軸を分けたことで、物語そのものが重層的になった。「ゆれる」では、兄・医者−妹・刑事という対立軸を、オダギリジョー演じた弟一人に背負わせ、どちらの軸にゆれるのかが見所の一つだったけれども、「ディア・ドクター」は、だから一作目に近いのかもしれないし、兄の金が犯罪で得た金であることは最初からわかっていた展開同様に医者がモグリである事実は、観る前からわかっていても、さして重大なネタバレではないのかもしれない。
 空中キャンプさんはhttp://d.hatena.ne.jp/zoot32/20090726#p1で、西川監督の力量を評価した上で、「たとえば村にやってくる新人の医者が、BMWの赤いオープンカーに乗ってちゃらちゃらと登場するシークエンス。都会からきた青年が、高級外車に乗りつつ、友だちと携帯で話している。いかにも「いいところのお坊ちゃん」然としていて、こんなに記号的な表現でいいのだろうか、とおもうが、そこはストーリー上さして重要な場面ではないから、あえて記号で通す。次のシーン、急病人を診察にいく三人が、老人の死を看取る場面。ここでは変わって、老人の遺族や周囲のややこしい思惑が何層にも絡み合う、複雑なシーンになる。それぞれの人物の表情が、欲、困惑、不審、あきらめなどを抱えている。それはきわめて重層的に描かれていく。」と、観客に何を見せたいかが明瞭になっているからこそ成し得る演出の力を簡明に言い表した。この老人の死のシーンを詳しく書くと、喉に食べたものを詰まらせて窒息に悶える老人の元に駆けつけた伊野に付き添う看護師に研修医と、老人を取り囲む家族の面持ちは、実際絶妙な感情を画面に焼き付けている。長らく老人の介護をしていただろう息子の嫁と思しき女性が、正座した膝の上に置いた両手のこぶしに力が入る。まるで、このまま義父を死なせてくれないかと訴えてくるかのように。周囲の家族も嫁ほどではないが、その死を待ちかねているかのような雰囲気がある。その中で、伊野はまさに「空気を読む」のである。老人の息が絶え、心臓マッサージを試みようと伊野は胸に両手を当てて圧力をかけんと力む。動揺に力が入る家族の感情の複雑さ、特に嫁。彼等の表情を見渡して、マッサージを止めた伊野は、臨終を告げた。嫁の両こぶしの力が途端に弛緩した……(伊野が本当に心臓マッサージが出来たのかどうかも実ははっきりしないわけで、この妙が、全編に行き渡っていて素晴らしいのだ)。まあ、老人は息を吹き返すんだけどね。
 あるいは、事故で大怪我をした青年が診察所に担ぎこまれると、伊野は少し動揺した様子を見せながらもなんとか診察する。外傷の手当てはどうにか済ませられたものの、胸が大きく膨らんで呼気絶え絶えの様子に、あっさりとさじを投げてしまう。もう駄目だ、死んでしまう。しかし、元緊急医療の看護師だった余貴美子演じる看護師の大竹(キャストはみんな素晴らしかったけど、特に余さんが一番素敵だったよ)は、過去の経験から、これは肺に穴が開いたことで空気が漏れ内臓を圧迫している緊張性気胸(だったと思う)だと察し、今すぐ胸腔穿刺を行わなければならないと諭そうとするも、伊野はそれを拒んでしまう。何故なら、やり方を知らないからだ。物語も中盤になると、観客にも明らかに伊野が偽医者であることが伝わっているから、伊野の態度は、医術の勉強をしていないからだとすぐにわかるし、大竹もどこなくそれを察知していた。でも看護師がそれをするわけにはいかない(らしい。法律的にそうなのか)。医療器具を渡し、表情でどこに針を刺すのかを教えようとする大竹と、すがるように彼女の仕種をうかがいつつ、胸の辺りでさ迷う針の切っ先の緊張感がたまらなくおかしいのだから不思議だ。前述の老人の臨終に漂っていたコミカルさが、この急を要し命に関わる重大な状況において再度現出するのだ。そして、その場を真剣に見詰める第三者の存在としての瑛太演じる研修医が、老人の家に集まっていた村人たちと同様に、どこなく無邪気なのもおかしく、同一の構図を少しずつ煮詰めに煮詰めていくキャラクターに焦点を絞っていく物語は、自然と登場人物の内面へと意識が集められていくのだ。
 さて、医者を演じる伊野が唯一モグリであることを吐露できた人物がいた。香川照之演じる薬屋の齋門である。二人の関係は共犯と捉えることができるわけだが、とりわけ印象深いのは刑事に伊野の人物像を問われたときの反応である。彼は事実を知りながら長く隠していた。他の人々が、確信はないがニセ医者らしいと勘付くのとは違う。伊野は何故大金がはいるとはいえ苦労ばかりで休む日もない老人ばかりの村で、数年も医者を演じていたかという刑事の問いに、齋門は簡潔な答えを用意していた。後ろに倒れるのである。彼自身、伊野の弱みを利用して薬を法外に売りつけていたらしいのだが、だからといってこの村にこだわる必要はない。もっと人も患者も多い町のほうが営業しやすいだろう。いくら伊野を脅したとて限界がある。そして、村人たちのために薬を届ける行為だって疲れるだけだ。彼は胃薬を常用し、痛みを堪えている。それでもこの村によく顔を出し、伊野とこっそり話をしている。だから、彼が倒れた時、それは胃痛が原因ではないかと思った。思っただけで、それが本当かどうかは確かめようがないが、「あっ」と小さな心の声を上げると同時に、劇中の刑事たちも彼を支えようと駆け寄って腕を伸ばすのだ。
「そういうことじゃないですか」
 と齋門は言う。目の前に倒れそうな人がいたら、誰でも手を伸ばす。実際に支えられるかどうかはわからないけれども、今出来ることをやろうとする。伊野が村に留まり続けたのも、単にそれだけのことではないのか。
 終盤に至ると、物語は伊野と胃の痛みを隠し続ける一人の老人(八千草薫)の関係に焦点を当てていく。無邪気な第三者は遠のく。家を訪ねては胃潰瘍の治療をする伊野は、しかし、女性が胃がんであることを知っていた。どこぞの医療機関に送ったらしい細胞か血液かわからんが、その診断結果は明確に癌であると告げていたのだ。医術書を読み漁って勉強をするも、自分ではどうすることこもできない。だからと言って彼女の倒れそうな身体から背中を支える手を引っ込めて仕舞うわけにはいかない……
 医者と村人の大きな関係性は、次第に人と人の関係に絞られていく。常に脇にいた第三者の影は薄くなり、ラストに至ると、完全に二人だけの関係が出来上がる。……いや、私がいた。観客として無責任に感想を放言する私が第三者としているのだ。二人を見詰める私は、無邪気に伊野は偽者でうそつきだと罵ることはしない。でも、彼がモグリで大金を得ていたという事実も見過ごせない。どうすればいいのだろうか。八千草薫笑福亭鶴瓶の微笑みが、余韻たっぷりに映画を締めくくる中、私はそれでも無邪気に無責任に言ってしまうのだ。この映画は素晴らしい! と。