ダムと夏目友人帳

 民主党が政権を取って以降、八ツ場ダムの建設問題をニュースで見かける。この建設が中止になるか否かが住民にどのような影響を及ぼすのかは私にはわからないが、ダムが地域住民の生き方を大きく変えることは容易に予想できる。ダム建設によって沈みゆく村になおも住み続ける老人たちに迫ったドキュメンタリー映画「水になった村」の衝撃的なクライマックスはまだ鮮烈に覚えているが、ある老婆に着目しただけでも大きな人生のうねりが訪れるのだから、何百何千あるいは何万もの人々にどんなうねりが現れるかまでは、およそ私の想像を寄せ付けないほどの衝撃があるかもしれない。
 八ツ場ダム建設と同様に民主党が中止を言明しているのが熊本県の川辺川ダムであり、このダム建設問題と関わりが深く、作品の中で間接的に失われる村・土地の物悲しさをひっそりと伝えるマンガ家がいた。緑川ゆきである。
 言葉にして直截訴えるわけではないから、作品からそのような主張を読み取れる場面はないかもしれないが、もっとも象徴的な挿話が夏目友人帳1巻収載の第四話「ダム底の燕」である。簡単にあらすじを書くと、夏の猛暑で干上がったダムから沈んだ村の建物が顔を覗き、そこにいた妖怪たちがひと時の祭りを楽しむ、という按配である。作者自身があとがきで、「割とダムについては身近に話題になるところに住んでいた」というのもわかりやすい。緑川作品に漂う切なさ・どこか寂しい雰囲気には、失われたものへの哀愁が底にあるからかもしれない。
 さて、緑川ゆき作品の池などには、時折、沈んだと思しき鳥居や石塔が描かれることがある。数こそは少ないが、夏目友人帳でもわずかにあった。また短編「蛍火の杜へ」では、釣りをする主人公たちの近くに、やはり沈んで崩れたらしい建物がある。
 緑川作品の登場人物の名前のいくつかが、作者の地元熊本に由来していることはファンならば常識だろう(熊本は夏目漱石が4年ほど教鞭をとった地でもあり、記念館などが建てられている)けど、「蛍火の杜へ」の主人公の苗字「竹川」も例外ではない。
 熊本県球磨郡五木村は子守唄の里で知られている。村の中心を流れる川辺川に連なる梶原川との合流地点の付近に竹川(竹の川)という山間の小さな地区がある。1000メートルを超える山々を抱く五木村は、夏になるとほたる祭りが催されるなど自然豊かな村だ。作者にとって「蛍火」の背景には、おそらくこの村が想起されている。この五木村こそ、川辺川ダムの建設によって大半が水の底に沈む村なのである(現在、五木村の水没予定地の住民は多くが移住を済ませている。また村はダム建設推進の立場で、前原国交大臣には中止表明に対する抗議文を出している)。
 私が住み慣れた土地を失うということから連想するのは、帰る場所を失うというイメージである。夏目友人帳8巻において、まさにそれが主題とされた挿話が描かれた。
 夏目は両親を失い親戚の家をいわばたらい回しにされて育った。小さい頃から変なものを見た、妖怪が見えるための苦労を彼は幼少から体験し、それを知らない周囲は当然この子はちょっとおかしいと気味悪がった。夏目は、どこにいても本当の自分をさらけ出せないまま、周囲に出来る溝を埋められない。彼は故郷を失ってさ迷う放浪者だった。ダム建設によって故郷を失った人が、行き場を求めめるように。
 夏目は故郷を持たない。いろいろな土地を渡り歩き、安住しないままに、次の地に向かい、どこに行っても上手くいかなかった。そんな彼が、藤原夫妻の家にやってくることになった。第三十・三十一話が、そのときの様子を描いている。
 藤原夫妻は物語の当初から心優しい存在として・特に妻の搭子さんが、夏目を我が子かそれ以上に慈しんでいる様子がしばしば描かれていた。個人的に過剰にも思えた愛情の注ぎ方は、ひょっとして何か裏があるんではないかと訝しんでしまうほどだったが、どうもうがちすぎだったらしい。夫妻の優しさは、夏目に帰ることができる場所を与えたのみならず、長く人前でダムのごとくせき止められていた涙さえも押し流してしまうほどの感情だったのである。
 川辺川ダムの問題は、今後ニュースで語られる機会が増えるだろう。昨年、知事の苦渋の決断によって建設の白紙撤回を熊本県側は決定したが、計画当初の激しい反対運動から現在の建設受け入れ・移住などで翻弄され続けた五木村の人々の心情については、軽々しく述べることが出来ない。

(「夏目友人帳」より)