回転真中

 渋谷パルコでスウィングガールズの2時の回のライブを鑑賞し、続けて映画も鑑賞。
 上野樹里って真面目にかわいいな。横から見てたんで関口本仮谷はよく見えなかったが、上野は周囲を見渡しながら挨拶してた。ずっとニコニコしてたな。演奏は素人耳でも微妙に下手で、平岡はピアノソロいきなり間違えるし、貫地谷のソロも最後の高音でなかったし、上野のソロは音出てなかったし。一番端のトランペットの子がそれをくるくる回してて楽しそうに演奏してた。たった二曲で終わってしまったのが残念だ。矢口監督の姿も拝めた、サイン会行こうと思えば行けたんだな。整理券とっくに配布終わってたと思ってたけど、ライブ終了時点でまだ券が残ってたらしい。ちぇっ。そんなの知らずにサインする監督を眺めてただけだった。変なおばさんいたな。
 この映画、はてなダイアリーだけでもいろいろと感想やら批評やらを読んで回ったが、面白いね。強引にまとめると、イノシシのとことか「先生死んだんかえ」婆さんとか、おかしかった場面に個人差あるけど、ここの場面を面白かったと語り、最後の演奏シーンは多くの人がかっこいい・感動したという感想に至っていた。興味深いのはここから。そこまでの感想が異口同音でありながら、映画全体を眺め回した結論が、粗はあるけど最高! そんなの気にしない楽しさがあるって人と、粗が目立つし伏線ボロボロだしつまんねー(あるいはそれほど騒ぐもんじゃねーという意見)という二極化が目に付いたのだ(2chのスレも同様の流れ。楽しかったんだからいいじゃんという気配が場を制しようという勢いか)。
 前者の例はたくさんあるんでそのへんに引っかかったのでいいんだが、後者の代表例がここhttp://d.hatena.ne.jp/tragedy/20040914#p2 
 言いすぎだなと思う反面、伏線を鍵としてみた場合は憤慨する気持ちがわからないでもない。でもね、大きな見落としがあるんですよ、これ。
 書かれてあるとおりラストの演奏における物語的盛り上がりってものは足りないと私も思う、それを私は前回の感想でちょっとスウィングが足りないって書いたんだ。上達した彼女達の演奏のかっこよさに加えて、そういうカタルシスがほしいってのもよーくわかるよ。物語の構造としてはそのほうがわかりやすいし爽快感もある。で、肝心の見落としってのが「それは結末への起爆剤が仕掛けられていないからだ。つまり、伏線が全然張ってないのである。」てところね。伏線張ってないよ、確かに。でもね、もしラストの演奏会を伏線絡めた山場にしようとしたら、それにむけての準備が必要だよね。で、そうした準備がないのでこの映画は・ひいてはこの監督は浅ましいという印象で怒っているの。準備してないよね。展開は行き当たりばったりだもん。だから何で駄目だって結論に至るのか、そこが疑問なんですよ。もし伏線を用意するなら、演奏会が目的・つまり起爆剤を当初から設定するのが常道だと思う。「ウォーターボーイズ」との最大の違いがそこなんだ(ボーイズとガールズは一緒だなんて言ってる奴はシネクイント100回通え)。あれははじめから文化祭でシンクロを発表することが目的として掲げられていたよね、顧問の先生がポスターまで用意してたし。彼らを目的に向かわせた原動力はシンクロの楽しさもあるだろうけど、みんなにバカにされて悔しいってのもあるよな。文化祭で恥をかきたくないってのもある。「スウィングガールズ」はどうだろう。演奏会の存在は終盤明らかになるが、彼女達がジャズをやめなかったのはなんでかな。別に勝利に向かって努力していたわけでもないし、友情を誓ったわけでもない。文化祭でシンクロを5人が真面目に発表することをニュースで知って集まってくる他のボーイズたちに対し、5人の演奏を聞いて楽して生きるよりもジャズを選択して集まったガールズたち。根本的に目的が違うんである。演奏会で勝つためにジャズをやっていたとしたら、伏線は絶対必要だと思う、だんだんシンクロが上手くなっていくボーイズのように練習場面をもっと描写したことだろう。でもそうじゃないんだな、はじめっから起爆剤なんてもんは必要としていないんだよ、この映画は。まあ……起爆剤がないので物語の決着をつけるために偶然転がり込んでくる演奏会というイベントに必然性を見出せないってのがあるのかもしれないけど、観た人は今一度真面目に振り返ってほしい、彼女達がジャズを続けた理由を。ジャズが楽しいから! これが最も相応しい理由だと思うんだが、やっぱ駄目か(その楽しさってのが起爆剤なのかもしれないね)。
 だから私は、粗は目立つけど楽しいからいいじゃん、ていうアホな感想におおいに肩入れしてしまうんである。