「同じ月を見ている」

 さて、漫画原作映画ということで。
 「同じ月を見ている
 原作は土田世紀。監督は深作健太、脚本・森淳一、主演・窪塚洋介黒木メイサエディソン・チャン
 東映深作健太、これだけで十分つまらないことが予想できるわけだが、原作について軽く触れておこう。土田世紀が自ら(作家としての)分岐点と語る本作は力作というにふさわしい出来上がりである。全7巻、序盤こそ硬い展開だが、中盤で金子が登場するあたりから余裕が見えはじめ、感動的なクライマックスへ突入していくくだりは圧巻である。主人公ドンの設定があまり生かせていない点など物語は荒削りだが、感動を煽る力技の演出も魅力である。
 この作品が映画化されると知ったとき、不安要素を幾多も抱えながら、期待している自分がいた。二時間にまとめるには十分な量、むしろ映画によって荒さを削ってきっちりまとめれば原作より面白い作品になるだろうという楽観があった。私がバカだった。
 映画を見ると、原作が登場人物に温もりを与えるために少しずつ描写を重ねていたことに気付かされる。ドンに影響される幾人ものさまざまな言動が彼らに血肉を付け、ドン自身の人物像も満ちていく。原作のドンはまさに月だった。彼は世の中の人々の感情を全て一身に引き受けたかのような神々しさがありながら、決して自己主張せずひっそりと生きていた。皆が太陽のようにうるさいくらいに光ろうとし、あわよくば他人を陥れようと相手を焼き尽くさんばかりの感情の光を放ち続ける。だが、ドンに出会った人々は、彼に暖かいまなざしの光を向けるようになる。彼はそうした人々の感情を反射する月だった。では、映画のドンはどうだろうか。演じるエディソン・チャンは一見ドンのような風情を醸している。だが、彼はあくまで人間としてのドンを演じてしまった。もちろん、作品の解釈の仕方はそれぞれあるだろうから、ドンを神聖視しない姿勢もありえよう。作品の感動を煽るならば、特別な存在にするより、ひょっとしたら身近にいるかもしれない人物像に近づけたほうが感情移入を促しやすいだろう。しかし、原作読者の中に、ドンに接近した人はどのくらいいるだろうか。ほとんどいないだろう、彼は人から想われることで姿を現す、読者もまたドンに出会った登場人物の一人なのである。なので、エディソン・チャンの選択は原作を理解していないと言わざるを得ない。いや、そのような立場であったのだろう。
 そもそもこの映画は窪塚ありきである。窪塚が主役なのである。エディソン・チャンは窪塚を光らせるためにドンを演じたのかもしれない。では、当の窪塚はどれだけ輝いただろうか。うん、復帰作としての意気込みはスクリーンからも感じられた。というか、かなりいい。もともと好きな役者なので、正直嬉しくもある。けど、それだけという気がしないでもない。主人公をドンから鉄矢に変更したための物語の軸の変化が、映画を歪めさせた(パンフのプロダクションノートから、主人公変更による脚本作りに難航したさまがほのみえる)。原作との比較をしてみよう。
 まず原作に登場したスマ、杉さん、雪恵等が割愛される。金子(山本太郎)、画家の東谷(岸田今日子)の登場が主だったところか。子供時代の舞台は原作では軽井沢とはっきりされているが映画ではどこかの田舎という程度。鉄矢が医者を目指すに、もちろんエミを治したいという目的があるけれど、原作では鉄矢の両親は薬局やってるけど、鉄矢の両親も登場しない。エミの母は山火事のときにしか出てこないから、母がドンに会うなと釘をさす場面もない。エミの父はコールドマンではなく日本人、ドンの父も登場しない(両親はすでに亡くなっているという設定にしたらしい)。ドンの恩師も登場しない。原作をまとめたというよりも省略しまくった感が強い。原作との大きな変更点は、主演三人の関係である。原作の鉄矢の行動に説得力を与えていたものは、山火事の犯人であることを明かされるのではないか、エミを獲られるのではないかという不安も加わり、またエミがドンに惹かれていたという事実により三角関係が強調されていた。けれども、映画は冒頭、ベッドで横たわる鉄矢とエミを映す。二人とも付き合っているのである。二人の間で揺れ動くエミも鉄矢の言動に苦しめられるエミも描かれない。エミを演じた黒木メイサにはそこまで演じきれるほどの力がなかったのかもしれない、台詞回しも脚本の書き言葉をそのまんま調子を付けてしゃべっている上っ面だけである、まあ窪塚が気合入りすぎているだけかもしれないけど。で、そんな関係として最初から描かれているので、ドンの立場が非常に曖昧なものになっている。エミがドンに会いたがる理由も弱くなる。鉄矢の不安も山火事の真相一点のみになり、説得力も乏しくなる。子供ころの回想で鉄矢がドンにエミのことで嫉妬する表情を見せるが、現在の鉄矢がドンに同じ理由で嫉妬する表情が描かれないのである。原作では早々に描かれた山火事の真相も映画では物語の核のひとつに据えられている、だから映画では鉄矢がドンに再会していきなり殴ったり苛立ったりする場面で混乱するかもしれない。鉄矢がドンを恐れる理由が描かれないまま物語は進行し、中盤になって回想シーンとして山火事の原因が描写されることで、ようやく合点がいく・つまり物語の順番を入れ替えた結果、前半の展開が、少なくとも私には意味不明だった(原作では脱走後自首してまた刑務所に戻りメインは出所後だが、映画では脱獄したまま最後まで物語は進行する。にもかかわらずドンを追う刑事たちは冒頭に登場するっきりで、終盤に至ってはドン自身にも警察から逃れよう避けようという意思がまるっきりない。まぁ、意思がないのはいい、ドンらしいとも言える。ところが絵を届けたら刑務所に戻る、という展開ではないので、いつの間にかドンは脱獄囚から山下清よろしく流浪の画家に変貌してしまっている)。
 中盤の回想シーンの入る位置は、原作ではドンとエミが臨死体験をする場面に当たる。ここで回想入れるのは上手いことやってんなと思う。ここだけなんだけど。でも現在のエミがはっきりと鉄矢を愛していることがわかっている観客にとって、エミが意識朦朧とする中「ドンちゃん」と言ったところで、彼女の苦悩は見えない。単なる幼馴染に会いたがっている程度である(しかも後に、エミは子供時代から鉄矢に好意を寄せていた場面が映されるのである、原作の改悪としか言いようがない)。だからここでも苦しむのは鉄矢ひとりとなる。ああそうか、窪塚が主役なんだからあれこれ悩んだり悶えたりするのは主人公だけなんだ……。ドンの立場がますます薄いものになっていくなあ。
 そして私にとって最も腹立たしかったのが、子供時代のドン(を演じた役者であり、そのような演出をした監督)である。鉄矢が橋の上でドンを川に落とすように級友に煽られ、ドンが自ら落ちる場面。とても印象深い。映画版もこれを逃すわけがなかろう、二人の関係を象徴する場面としても意味があり、省けるはずがない。問題はここのドンの目である。彼は川に落ち、橋の上から自分を見下ろす鉄矢を見る。鉄矢の複雑な表情の次に水面から顔を出したドンの上目遣いの表情、これがもう怖いのである。とても鉄矢を慈しんでいるような哀しんでいるような目ではない。睨んでいるような目なのである。アングルの問題もあるんだろうけど、長じたドンを演じるエディソン・チャンとの眼力の差が歴然としてて、もうここでがっくりである。まあその前の場面(鉄矢が高架橋の下でドンを殴る所が長回し・カメラ固定で汚い映像(全体的に映像がざらついているけど、ここは特にひどい)なんだけど、ドンはうずくまっているだけで、表情が見えないし、壁蹴ったりしてイライラしている鉄矢の動きだけが見えている状態)から、こりゃ駄目だなーと思い始めていたものの、まだ映画に集中しようという意気込みがあったけど、もう脱力した。
 なので中盤以降は簡単に書く。金子が殺されて、ここは原作のように死に際の彼から鉄矢がドンの居所を知らされるんだけど、鉄矢はエミを連れて車で山形へ向かう。都内から山形までって車でどのくらいの時間がかかるんだろう。夜に出発して夜に着いているから、夜中に着いたのかなー、と思ってたら、子供が起きて火遊びしてるし、それが山火事になって大騒ぎになってるし、原作では手術で治ったエミの心臓が映画では手術は失敗してまだ治っていないことになっているので激しい運動はできない(映画では走ったために倒れてしまう描写が2回ある)と思われたのに、なぜか鉄矢と一緒に山の中を走っているのに全然平気だし。なんだかなー、こういう突っ込みどころしか目に付かない。
 そんな中で、この映画が原作を凌駕した場面がある。ドンの絵である。ドンの激しい気性が顕になる絵。この絵はよかった。東谷に用意された画材で鬼気迫る表情で燃える絵を塗りたくる。迫力あったなー。……でもね、そんな絵さえも、この映画は生かしきれないんだ。これ、山火事の絵なんだよね。ドンの本能と思われた迫力が、実は山火事を予知したものだったんだ。この絵を見せられた鉄矢は、ドンの能力を思い出して山の中に入る、エミも追う。山の中では明らかに火遊びしてるだろうっていうガキが前振りで登場してて(しかもわざとらしく「最近ボヤが多いわねー」という東谷の説明付)、そのガキが木に火をつけて喜んでいるところに、地元の消防団らしき人達が現れ、ガキは山中の廃屋の中に逃げ込んでしまう。廃屋の中はお約束のようにどういうわけか引火性が明らかにありそうな・それらしき缶がいくつも置いてあって、で、突然ガキは心臓押さえて苦しみだして、お前心臓悪かったのかよー、と心の中で突っ込むところに同じ心臓が悪いはずのエミが鉄矢と全力疾走で廃屋に到着、廃屋はガッチリ施錠されてて、迫り来る火から消防団が必死になってガキを救出しようとするんだけど、廃屋にも火が回り、入り口をこじ開けたと思ったらドカーン、こりゃ駄目だーわーわーというところにドンがふらりと現れて、ガキを救うために中に飛び込むのだった。
 まあ山場はこんな感じ。忽然と消える消防団など突っ込みどころはまだまだあるし、臓器をなんであんな生々しく映しているのかも意図がわからん。というか意味ないだろ。原作では肝臓移植だけど、映画は心臓移植になっている。原作にあったドナー登録という伏線もなにも映画にはないので(私が見落としていただけなら、それはそれで私があほだったというだけの話でいいんだが)、移植が誰の許可を得てのものだったのか不明。ていうか、火の海の中に落ちていったはずのドンが火傷らしい火傷もなく、ガキもしかり。わけがわからん。原作では内臓が左右逆転してたっていうのを映画は心臓が子供のように小さいという設定に変更しているのは構わない。でもなんの前振りもなくいきなり移植はどうみても問題だろ。ドンがなにか言葉でも残しているならともかく、そんなのないからね。原作が台無しにされたとかいう次元の話じゃない。映画が台無しにされた。ラストはそのガキが出て、原作のようにドンの能力がその子に宿る、という感動的なシーンになっているんだけど、もうそれまでの苛立ちがあって全然駄目だった。はいはいガキがドンと同じ絵を描くんだろかんどうかんどう。
 演出の出来ない現場とクランクイン直前に脱稿されたという半端な脚本(窪塚ありきで企画が進行しているのがよくわかる。脚本や絵コンテは映画の出来を左右するもののはず、マンガで言えばネームだ、こんな大事なものを一役者のスケジュールの都合でなに見切り発車してんだろうか。こんな映画に期待した自分が恥ずかしい)。役者頼りのこの映画で窪塚洋介エディソン・チャンは十分な仕事をしたと思う。土田世紀らしいユーモアも松尾スズキが一身に担っている。山本太郎岸田今日子も与えられた役を存在感そのものから演じている。だがそれらを生かせない演出と音楽(いやね、BGMがこれまたひどいんだよ)は、まるで原作でドンを苦しめた汚い人々の感情のようにギラギラしてて、役者に光を当てるべきスタッフが騒々しい。深作健太監督、次は押井守脚本で映画を撮るそうだが、もう辞めたほうがいいと思う。まあ、また観てしまうだろう自分が予想できるのも嫌なんだけど。
 「ALWAYS 三丁目の夕日」同様にベタベタな話なのに、なんでこんなに差が出たんだろうかって考えると、それは原作への愛情はもちろん、原作となった舞台や登場人物への優しいまなざしなんだよ。「同じ月を見ている」にあるのは窪塚への労わりや賞賛なんだろうな。