映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」感想

映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」感想
企画・製作・監督:若松孝二
脚本:若松孝二 掛川正幸 大友麻子
音楽:ジム・オルーク  撮影:辻智彦、戸田義久  美術:伊藤ゲン
照明:大久保礼司  録音:久保田幸雄 プロデューサー:尾崎宗子 大友麻子
主演:坂井真紀 地曵豪 大西信満 中泉英雄 伊達建士 日下部千太郎 椋田椋 粕谷圭五 川淳平 坂口拓 伴杏里 本田章一 笠原紳司 渋川清彦 桃生亜希子 RIKIYA 玉一敦也/ARATA 並木愛枝 菟田高城 佐生有語 藤井由紀 安部魔凛碧 奥田恵梨華 神津千恵 一ノ瀬めぐみ 宮原真琴 鈴木良崇 辻本一樹 金野学武 比佐廉 岡部尚 木全悦子 高野八誠 小木戸利光 タモト清嵐 山本直樹 中道亜希 田島寧子 黒井元次/佐野史郎 倉崎青児 奥貫薫原田芳雄(ナレーション)

 正直に言えば、私は連合赤軍については何も知らないし、事件の概要もほとんど知らない。なんか仲間同士で殺しあって、結局あさま山荘に閉じこもって巨大な鉄球ドカンドカンでしょ、ていうか日本赤軍とは何が違うの? という浅薄さである。永田洋子とか坂口弘とか重信房子とかも名前を聞いたことがある程度に過ぎない。そんな無知な人間にとって、3時間10分の長尺は、最初から最後まで出来過ぎたドラマを見ているかのような奇妙な滑稽さがついて回っていた。事件として流れを知っている人にとっては、この映画はどれほど「実録」と呼べ得るものなのか、どこまで再現されているのかに目が奪われてしまうかもしれないが、そういった予備知識のない私にとっては、かつてこんなことが日本であった!というような驚きよりもむしろ、彼らの言っていることの意味がわからない、という無責任な思いが渦巻いていた。
 監督が事件を知らない鑑賞者をどの程度意識していたのかはわからないが、私の冷めた鑑賞態度は、劇中の遠山美枝子の表情や加藤元久の視線と時折ぴったりと重なることがあり、そうした積み重ねによって、およそ感情移入なんぞ出来そうもない登場人物に、共鳴してしまう瞬間を体験させる源になったと思う。そう、最後まで彼らに理解できないという感情がある一方で、彼らを客観視する遠山・加藤の両者の立場が、映画の世界に私を引き入れてくれるという劇中と劇場の二人に分離したような気分をも体験したのである。観終わった今振り返れば、連合赤軍の彼らの言動に一個も納得するところがあってたまるか(革命だ何々主義だと何を言ってるかわからない私にとっては、森も永田も他の連中もただの人殺しにしか見えない、そんな犯罪者に共感してたまるか)という拒否反応と、映画の登場人物として与えられた役割・設定に感情移入してしまう自分の二面性に過ぎないだろう。けれども、前半に特に強く意識していた拒否反応そのものが遠山や加藤の反応と重ねられていく。遠山の今際の言葉に戦慄し、終盤のあさま山荘ではほとんど加藤元久の姿ばかりを目で追う結果になった。
 映画前半の主人公と勝手に思っている遠山美枝子の登場は、重信房子と一緒に学生運動に身を投じる姿として画面に現れる。連合赤軍誕生以前の物語は記録映像を織り交ぜつつ描写されるが、安っぽいセットの中での役者たちの振る舞いが、もう私には少しおかしくもあったが、何よりも激して演説をかます塩見たちからして、この人たちは何語をしゃべっているんだろうというポカンとした気分があった。みんなわかってんのか……すげぇなぁと自嘲気味にもなってしまうのだが、そんな中で唯一理解できる言葉でかわいらしく振舞っている遠山は、演じる坂井真紀の魅力もあるけれども、とても革命に邁進しているという雰囲気ではなく、親友の重信といつも一緒で楽しいな、みたいな真面目に運動をしている他の登場人物との差が一層彼女の魅力を引き立てているようにも思えた。映画自身も、記録映像は次第に影を潜めていき、役者の演技も再現映像というぎこちなさから少しずつ脱し、連合赤軍がいかにして成立したのかという説明を原田芳雄のナレーションによって淡々と描く。わけがわからなくとも、この説明により、学生運動共産主義者たちの一部が中国の文化大革命の影響下に一部先鋭化した赤軍と革命左派が接近し、永田・坂口が登場するくだりになると、淡々とした中にも、彼らがいずれ仲間内で総括の名の下に殺しあうのかという漠然とした緊迫感が待ち受けている中盤の山岳ベースの物語の予感が無知な私にも感じられるようになる。
 それだけに重信と遠山のシーンは和んでしまう場面だったのだが、赤軍当初からのメンバーでありながら、他と全然違う振る舞いを見せ続ける遠山が重信と別れるシーンに至ると、もうほとんど私は彼女の視点になって劇中に潜り込んでいたと思う。見送りはここでいいよと先を歩く重信の背中に「フー!」と遠山が声を掛けた。重信を演じた伴杏里に私はそれほど力を感じないんだけど、それでも振り返った重信の潤んだ目(に見えた)と表情が、私の期待していたものだっただけに、この別離が遠山を悲劇に向かわせてしまうんだろう、と事件を知らないものにも感じさせる分岐点になった。
 山に入った連合赤軍に次々と仲間が加わっていく(女性の多さにびっくりした)。地獄にようこそ、みたいなふざけた視線を送りつつも、やはり私は遠山の姿を目で追う。カメラも彼女の姿を常に捉え続ける。軍事訓練と称して山の中を走ったりするわけだが、これが一番おかしいのである。訓練の後ろでちょこまか動いている遠山。射撃訓練では銃を構え、狙いを定めて「バン」と叫ぶ。あれ、ここ笑いどころ? と思わずにいられない私に応えるように遠山が表情を崩す、明らかに笑っているのだ。この場にいる青年たちがどれだけ射撃ごっこに真面目になっていたかはわからないけど、「バン」「声が小さい!」「バアン!」……笑うよなーやっぱり。
 しかし、彼女のそんな行動を影から監視するように見つめている女性がいたのだ。永田洋子である。こえーこえー。永田を演じた並木愛枝の迫力がすげーすげー。あー、やはり私みたいな軽薄な態度は速攻で総括の対象だよな……と思いつつ、迫りくる総括シーンを予感させるに十分な緊迫感がいよいよ幕を開けた。
 警察に追われる状況、限られた人数で肩寄せあった生活、訓練になってるのかどうかすら疑問な毎日。森と永田と幹部らしい人たちだけが語気を荒げていくうちに、永田がメンバーたちを影から窺う様子が、議論の場の彼女の視線の鋭さを強く意識させる。真剣に革命兵士に身を投ずる気があるのか、といった感じで難詰し、些細なことを理由に自己批判を求める。殺気立っているのが手にとるようにわかる。お前はあれについてどう総括する? といった感じで精神的に追い詰める。明らかに何を応えればいいのかわからないメンバーたち。そして、ついに殴るという形で総括がはじまった。殴って気絶して、そこから目が覚めることが共産主義者として生まれ変われるとかいうようなことを森は言うのたが、もちろん私にはなんじゃそりゃーである。永田の視線を森の恫喝の中に加えることで、総括なのか彼女の私怨みたいなものがセリフの端々に感じられる。遠山も何故山で化粧をするのか・髪をとかすのかといったようなことをきっかけに総括の対象になる。そもそも、いつの間にか赤軍派の中心になっていた森は、映画の最初のほうで、赤軍派から抜け出すシーンが描かれている。脱走した彼は、次々と検挙される中心メンバーという人手不足がもとで、再び仲間に加えられたわけだが、それが脳裏にあるために、森の総括しろ!という激昂は、お前こそ自分を総括しろ!という憤りへと変わる。永田にはただただ慄き、森には怒りを覚える、というのが私の感想であるが、私は後に逮捕された森が拘留中に自殺したことを知らない。けれども、映画ラスト付近の彼の遺書の一部が読み上げられるシーンで、本当に自分を総括した彼に、怒りが解消されるどころか、なんとも形容しがたい悔しさが残った。
 いよいよ遠山にも殴るという総括が訪れてしまう。森は自分で自分を殴れ!と命じた。ここからカメラは遠山の顔を捉えなくなる。鈍い音が室内に響く、殴り続ける遠山。どれほどの顔になってしまうのか全くわからない。やがて永田がゆっくりと立ち上がって遠山に近付いた。鏡を差し出して顔を見るように促す。おそらく激しくゆがんだ血のにじんだ顔に違いない……この期待は、重信との別離のシーンで、彼女の潤んだ艶やかな顔を待っていたのとまるで一緒ではないか。遠山の総括に私自身が加わっているかのような錯覚。果たして遠山は、そこに写った顔を見て嗚咽し、激しく泣いたのだった……そして柱に結び付けられたまま放置された彼女は、妄想に苛まれ「お母さん、お母さん」と言いながら息絶えるのである。
 さて、山岳ベースの凄惨な総括の渦に巻き込まれてしまう遠山と交錯するようにして彼女の視線を受け継ぐ者が加藤元久・勝手に後半の主人公と思っている・が、もともと赤軍派のメンバーだった兄を頼る形で、もうひとりの兄(いわゆる加藤兄弟)と一緒にやってくる。明るい少年だ、16歳。彼が総括を苦々しい思いで見つめるシーンは幾度も描かれる。寡黙で議論に加わることも総括に加わることもない。彼は丁稚のような立場だったのだろうか。川で食器を洗うシーンが何回かあるし、どこか他のメンバーとは違う扱われ方をされているとわかる。彼の感情は、ゆっくりとではあるが表情を捉えられるたびに、疑問から憤懣へと変わっていく。そして慕っていた兄が総括されて死ぬと、彼の感情は捌け口を失ってしまう。それは観ている私にも通じていた。総括はいつしか私刑に変わり、処刑という形で殺されるメンバーも描かれると、もう何がなにやらわからない。何も知らない私は、いつか彼は脱走するのではないかと思っていた。だが、他の脱走者が現れても、彼は逃げないのである。ひたすら従順に指示に従って動く。どんどん押し殺されていく感情。何か言えよと、こちらが歯がゆく思うほど彼は何も言わない。
 警察の追及が厳しくなって追い詰められていくメンバーたちは、逃避行の道中で別行動をしていた森と永田の逮捕の報をラジオで聞く。この後の展開どうするんだろう、と思いながらも、黙々と彼らについていく元久少年を私は見つめ続ける。どうやってあさま山荘までいくのか。9人となった彼らは、途中で4人と5人に分かれる。5人の中にいる元久。ほんとに無知ですみません、このときになってようやく私は、彼が山荘に立て篭もったひとりであることを知ったのである。ほんとごめんなさい。
 5人は辿り着いたあさま山荘に侵入、ひとり留守番をしていた管理人の女性を人質にして立て篭もる。5人の中心だった坂口は、管理人にあなたは人質ではない、中立の立場でいてほしいと言い、この状況下においてもなお共産主義云々と語る彼に、もはや本気でしゃべっているとは思えない。ご飯をむさぼり食べる5人の若者や、拡声器を通して聞こえる投降を促す母親たちの声に動揺する彼ら。ひたすら室内の描写にこだわり続けたことが、この立て篭もり事件でも功を奏し、事件を内側から描くという視点を得、包囲する警察や車両を一切描写せずに物語は盛り上がる。そんな中でも、やはり元久(もうひとりの兄・倫教も共にいるけど)は黙々と銃を撃ち、周囲を警戒し任務に徹するのである。
 こんな山荘の中でも、なお総括は彼らを縛っていた。つまみ食いをした坂東を、吉野が自己批判しろ!と詰め寄るのだ。この期に及んでまだそんなことを言うのか……呆れ気味の坂東に銃口を向ける吉野。それを諌める坂口は、とにかく自己批判しろと坂東に呟く。ただひとり元久は場に加わらずに銃口を外に向けて見張り続ける。
 立て篭もった彼らの中心は坂口として描かれるものの、彼が現場を指揮する描写はあまりない。各々が持ち場を確保し、それぞれ銃を撃っているような印象さえある。だから元久の行為は、先ほど任務と書いたけれども、彼の自発的な行為なのかもしれない。つべこべ言わないで外に注意しようよ、そんな気配さえ感じる。総括だ自己批判だと繰り返していた彼らとは違って、ひたすら戦い続ける少年の姿に、あんたらの言う革命兵士って元久の今の姿なんじゃね? とも思えるほどだ。
 1972年2月28日。お互いが死ぬ覚悟を自嘲気味に自覚しあう場面がある。今まで黙っていた元久が、ここに至って、ついに感情を暴発させる。その言葉自身は、少年らしい単純なものでしかないだろう。だが、何か言って欲しい、と感情移入し続けていた私にとっては、単純だからこそ、痛切に脳裏に染み入るのである。私にとっては難しい単語が並べられた映画冒頭から何度も叫ばれた演説調の言葉言葉言葉。それら一度咀嚼しないと理解できない・咀嚼しても理解できない言葉とは違い、少年の叫びは、直截胃に届くような重々しさ息苦しさが込められていた。
 上映後の足取りは重かった。元久の叫び声は、まだ消えない。