映画「告白」感想 「なんちて」から「なーんてね」へ

映画「告白」感想 「なんちて」から「なーんてね」へ
監督・脚本:中島哲也
原作:湊かなえ「告白」(双葉社刊)
撮影:阿藤正一、尾澤篤史  照明:高倉進  録音:矢野正人
美術:桑島十和子  助監督:水元泰嗣  音楽プロデューサー:金橋豊彦
主演:松たか子岡田将生 木村佳乃 芦田愛菜 山口馬木也 新井浩文 黒田育世 山田キヌヲ西井幸人 藤原薫 橋本愛

 中学校一年B組の担任教師・森口は、事故で死んだとされる一人娘の愛美が、自らが担任するこのクラスの生徒に殺されたのだと告白する序盤から、物語はいきなりクライマックスに突入したかのような昂揚感に包まれた。
 生徒の名前を伏せたまま、犯人とされるAとBの犯行の模様が、松たかこの抑揚を抑えた主人公の語りによって惜しみなく・出し惜しみされずに暴かれていく。物語の冒頭、終業式で今学期で教師を辞することと、自分の娘の生まれた経緯と、その父親の存在を告白するしていくことで、生徒たちの甲高くて騒がしい教師を教師と思わない態度が静まっていく。雑踏の中で始められた森口の言葉は、次々とカットバックされる生徒たちの表情や牛乳を飲み方、メールに興じる様子など、過剰な情報がスクリーンを覆いつくして彼女の言葉に潜んでいる重大な意味を聞き落としていく。過去の作品で魅せた・特に前作のパコで著しかった絵筆で塗りたくったような過剰な色使いに溢れた映像の情報量が、今回は人物の表情と言葉の物量によって劇中の余白を埋めていく。考え推理する余地もないほどに、観客は森口の復讐の始まりに触れることになるだろう。
 そう、予告編で感じた、次第に明らかになっていく真相は、序盤であっさりと解説されてしまうのである。え?もう終わり?と、あっけにとられたかのように、だがしかし、物語は、ここから始まるのである。事故死として既に警察に処理されてしまい、今更法で裁こうとしても、13歳の彼らは保護観察処分されるに過ぎない、ならば、その短絡的な殺人の動機を、これから何年も続くであろう死の恐怖によって購えとばかりに、森口は牛乳に仕掛けを施していたのである……
 この映画に対する私の態度は、いや、私だけでないだろうけど、少なくとも私は、森口の告白によって、登場人物の誰にも感情を預けることが出来なくなった。最愛の娘を失った彼女の哀しみに共感するでもなく、人を殺したことに罪の意識を感じない風に見える生徒に対する愚かさを感じることもない。生徒の言葉を信じていない、という森口の発言によって、それこそ信じられないと先生をなじる生徒たちに、表情をほとんど変えず見くだした態度で教壇から生徒を見詰める森口の視線は、どの生徒にも親身になることのない、極めて冷酷な無関心さであった。なんだか、とっても気持ち悪いのである。
 告白が終わって殺人が暴かれたクラス、仕掛けに戦慄する二人、物語は、スローモーションで生徒の動きを捉え、風景の映像を挟み、音楽で場面を接着していった。やっと訪れた平穏は、次の言葉の序曲であった、森口から始まった告白は、他の人物に引き継がれていくのである。
 いつから物事を真面目に考える捉えることがばかばかしいことになったのだろうか。かつて岡崎京子は、マンガの中で真面目に物事を語るキャラクターのセリフに「なんちて」と付け加えて、真面目さを恥ずかしがるような演出を施していた。「告白」を観て思い出された「リバーズ・エッジ」にしろ「チワワちゃん」にしろ、岡崎作品のキャラクターは、生とか死とか、そういう話題をセックスや不真面目な言動で茶化しつつも、「なんちて」と言って、実は結構重く受け止めている様子が示唆されていた。だが、この映画は一体全体どうだろう。復讐劇の体裁を取りつつも、決して命の尊さなんていう安っぽい感情に流されることはなく(これを安っぽいと言ってしまうのも、半分照れ隠しみたいなもんなんだけど、こういう言い訳も含めて)、中学生が一度は想像するだろう稚拙な世界観から導かれる優越感あるいは挫かれることなく肥大化してしまった幼児の万能感を、未熟だと一笑に付すわけでもない。森口の後を受けて二年生に進級後の担任になった若い寺田先生は熱血漢として生徒の兄貴分みたくなろうと身体を張るが、生徒たちからはただの嘲笑の的でしかない。調子を合わせて活発な中学生を演じる生徒たちは、自分たちの中に潜んでいる未熟さを次々と表に出していくわけだが、映画はすでに森口の告白で誰も信じることの出来ない世界観が出来上がっていたため、誰がどれだけ本気で発言しているのか・そもそも寺田だって熱血教師を演じているだけかもしれない。
 人殺しとしてクラスのいじめの対象となったA、登校拒否を続けるB。森口の残したものは、クラスの新しい秩序だった。このクラスの生徒だけが抱えている秘密である。Aはさまざまないじめを受けつつも学校に通い続け、Bは自室に閉じこもったまま何日も身体を洗わずに過ごし続けた。どちらも贖罪であるかのような日々であるが、それさえも虚構に過ぎない。人殺しを人殺しと罵っても誰からも非難されないし、標的を得たクラスが何事もなかったかのように寺田先生と接する映像を観て、やはりこう思わずにいられなかった。気持ち悪い。やがて告白はクラスの委員長、Bの母親へと引き継がれ、B、Aと至ると物語は、森口の再登場によって、彼女自身の身体に気持ち悪さを収斂させていく。
 森口は辞職後もクラスを見詰め続けていた。AとBが今どうなっているのかも知っていた。彼女の復讐は、ただ少し、生徒たちの未熟さを利用して思考停止のきっかけを与えたに過ぎない。本来ならば学校生活の中で自然と取り戻していくはずなのだが、彼らは、教室の中に殺人者がいるという非日常に興奮し、何も考えない状態に沈んでいってしまう。そして、異様な状況下から逃れてひきこもっているはずのBでさえ、寺田が家庭訪問を繰り返すことによって、クラスの空気の渦に巻き込まれていく。
 終盤に至ろうかという段になって委員長は森口を街中で偶然見つけ、ファミレスで対話をすることになる。いわば森口の二回目の告白である。彼女ははっきりと語った。「バカだ」。子どもとか未成熟とか大人になりきれていないとか思春期とか、そういうありきたりな言葉で繕うことをしない。断言するのだ、生徒はバカだ、と。そんな折に森口はたまたま近くにいたある家族の男の子から飴玉を貰う。誰も信じていない彼女は、それを握ったまま、委員長との対話を続ける。話し終えてそこを出た彼女は、水溜りの中に濡れるのもいとわずに足を突っ込んで歩き続けた。
 最初の森口の告白が終わって学校から下校する生徒たちは、水溜りの中を平気で駆け抜けていった。それは単に無邪気で元気な姿を表現していたのかもしれない。けれども、担任の先生の娘が殺されたという話を聞かされた後である。足取りが重い生徒が一人くらいいてもいいだろうに、映像は格別勢いよく水を撥ねて走る生徒らを捉える。無邪気だから・子どもだから、ではない。森口が言うようにバカなんだ、何も考えていないのだ。
 しかしこの時、森口は飴玉を掴んだままであることに気付いた。それは確かに何も考えていないからこそできる幼い子どもがもたらしたものだろう。じゃあ、自分の娘はどうだったんだろう、愛美が事故現場とされた場所に行ったのは何のためだったろうか。それは何か深い考えがあってのことか、そんなものはない。単に目先の楽しみにだけを何も考えずに目指していたからではないのか。嗚咽しはじめる彼女の姿に、ようやく訪れようとしていた共感する瞬間である……かに見えた、だが、彼女は「ばかばかしい」と感傷を払拭してしまうのだ。なんと言うか、私が何人もの登場人物に感じていた拒否されている感覚を、森口は一人で全て抱え込んでしまうのである。復讐者だ、復讐に一切の感傷なんぞ許されないのだ。
 復讐者の条件って何だろうか。それは何も持たない・何も守るものがない・失うものがない、といったものだろう。愛美を失い職を辞した彼女は、その全てが当てはまっていた。一方、自滅していったBとは対照的に、自分のままならなさを世間への蔑視・そして復讐に変換していったAには、守るものがあった。Aは、森口のように他の生徒をバカだと見くだすことで精神を保っていたが、所詮はバカなガキのやる児戯に過ぎなかったのだ。「なーんてね」と粋がってみせたところで、Aの計画は簡単に打ち砕かれた。
 だからといって森口は復讐の結果に満足するでもなく感激するわけでもない。徹底的な冷たさ、それが最後の最後に自分自身にも向けられたかのようにして物語は締めくくられるのである。呆然としつつ、なんだか凄いもんを観てしまったという感覚がエンドロールの間、ずうっと続いていた。きっと観客は、たくさんのことを感じるだろう、いろいろ考えてしまうだろう。それらをひっくるめて袋に突っ込まれ思いっきり蹴っ飛ばされたかのような痛さが、今もなお続いている。なーんてね。