丘を超えて

丘を超えて
ナウシカ』や『ガンダム』の「その先の物語」とは何か。http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100512/p1
 その先の物語と言われてもぴんと来ない。あの丘の向こう? 善悪二元論っていう語り口が物語の分析でどれほどに有用なのか、さっぱり私にはわからないけれども、作品を次々に列挙して読み手を煙に巻く牽強付会な論法には正直、不愉快な思いさえ抱いてしまう。批判を承知で書いているとは言え、こうも暴力的なまでに作品を分断してしまっては、なにかこう、作家に対して失礼なんじゃないかと根拠ないけど漠然と考える。作家はマーケティングやらニーズやらを意識した物語を構築していく面もあるのだから、読者が求めていないものまでは描かない傾向があるかもしれない。仮に描いたところで人気がなければ消えていくし、連載なら打ち切り終了だ。その先がどの先なのかわからないが、とりあえずその先とやらがあるとして、描ける環境が果たして作家に用意されているのだろうか。
 結局は自分が希求する作品がないことへの不満もあるんだろう。僕が理想とする最高の物語、てのがあって、それにどれだけ近づいているのかが物語の評価ポイントになっているんだから、仕方ないのか。
 では私も強引にマンガ作品を列挙して「丘の向こう」に行ってみた物語を列挙してみよう。キャラクターたちはそこで何を見たのだろうか。
 望月峯太郎ドラゴンヘッド」は丘の向こうを目指した物語だった。封鎖されたトンネルから脱しても地獄、孤島となった伊豆半島から脱しても地獄、狂人の群れから脱しても地獄、そして、ようやくたどり着いた向こう側には、さらなる丘がそびえたって火を噴いていたではないか。彼らは生き延びられたのだろうか。
 宮崎駿風の谷のナウシカ」のラストシーンは、やっぱり、「生きねば…」じゃないのか。生きるべし、生きよう、生きろ、でもない。宿命として、生きなければならなかった。この後の展開がどうなるか定かではないけど、生き続けるしかない。クシャナは王位には着かなかったし、ナウシカは土鬼の地に留まったとも森の人の下に向かったとも言う。王位や故郷(ナウシカも一応王女だっけ)を求めず、生まれた地を離れて・丘の向こうに行った彼女たちの未来は、暗澹とした日常に違いない。争いの連鎖を生み続ける憎悪の泥沼に身を投じたナウシカクシャナは、生き続けたからこそ、伝承で語り継がれたわけだし、ていうか、伝承になっているということは、その先の未来が存在しているわけだ。人類は滅んではいない。歴史になっているんだから。
 手塚治虫アドルフに告ぐ」はどうだろう。ヒトラーの出生の秘密を巡る物語、何が善で何が悪なのか混沌としていく展開、戦争は終わっても、また別の地で争いが起こり、生涯戦いに身を投じ続けた三人のアドルフ。生き残ったのは、新聞記者として、結局物語の語り部となった主人公だった。あるいは「陽だまりの樹」、幕末、来る戊辰戦争。丘の上に陣取った彰義隊は目指す丘の向こうから飛来した討幕軍の長距離砲に粉砕されてしまった。死んだと思われた主人公の一人は、砲弾をかいくぐって生き延びて、幕府軍とともに蝦夷にまで行ったという。もう一人の主人公は生き抜いて軍医として名を成すものの、結局大成したのは、元女郎の女だったことを知る。どちらも善悪の区別が出来ない戦争という大きな出来事があった。その先は、時間が勝手に連れて行ってくれた。老いた元記者は、丘を目指して命をかけた人々の姿を思い起こした。老いた軍医は、討幕軍の中心人物だった西郷が起こした鹿児島の叛乱に複雑な思いで従軍した。
 大友克洋矢作俊彦気分はもう戦争」なんてのもある。中ソ戦争が始まると、どっちが正義だ悪だと無関係にやれ戦争だと騒ぎ立てる人々。受験に失敗したある青年は、戦争を眺めようと気まぐれに船に乗り込むが、オモチャの銃を向けたらあっさりと消された。オモチャなのに。彼には中ソのどちらが善で悪なのかなんて考えはない。ただ、どっちかが勝て負けろではなく、無邪気な好奇心から、戦争が見られるかも、いやこの青年の場合はそんな興味すらなく、ただ漠然と戦争見物の波に飲まれただけかもしれない。戦争の経済への影響とかで悩む大人たちはどうでもいいのだ。自分の快楽さえ満たされれば。丘の向こうに行くことなんて億劫なのだ。どうぞ向こうから来てください。
 ちばてつや高森朝雄あしたのジョー」は社会的な影響が大きかったけど、矢吹丈もまた、世界チャンピオンという丘を目指した一人だった。あまりにも巨大すぎるホセという丘を、ジョーは乗り越えることが出来なかったが、ホセを廃人にして、自身は向こう側に別の方法で逝ってしまった。生きるか死ぬかしなければ、その覚悟がなければ、丘なんて越えられないのだ。
 白土三平カムイ伝」も挙げようか。善悪どちらの陣営に属すも潔しとしないカムイは、一生命を狙われる抜け忍の道を選んだ。殺さなければ殺される世界に、善悪とか丘の向こうとかなんてのは空論でしかない。生き抜くしかないのだ。生きている限り日常はやってくる、丘なんてなかったんじゃないか、はじめから。
「ぼくは時代的閉塞感の先の物語を見たいと思う。その火が遂に上がった! そのことにわくわくしているのだ。「丘の向こう」には何があるのか? それはわからないが、いずれにせよ、素晴らしい景色に違いない。はてしない血と泥のかなたにある景色なのだから。」
 希望か。「丘を越えて」、1931年、藤山一郎は、丘の向こうに青春の希望があると歌った。1990年、小泉今日子は愛しい恋人が待っていると歌った。来る満州事変…来たるバブル崩壊…(強引な論法だなー)。丘を越えたって、やっぱりそこには、明るい風景なんてなかったんだよ。2008年、高橋伴明監督の映画「丘を越えて」が公開された。菊池寛の私設秘書の目を通して描かれた昭和初期の物語。新しい時代へのワクワク感といずれ来る戦争への茫漠とした不安。それらを乗り越えていく力強い人々、ラストシーンは「丘を越えて」をBGMに踊る出演者たちが映される。緑の明るい丘の上で、ややたどたどしくも、しかし映画のラストを飾るにふさわしい明るいレビューだ。間奏で踊る女性たちが傘を開いた、「善悪」「苦楽」「正邪」「明暗」といった文字が描かれたそれらで舞う女性たちの間を出演者たちが笑顔で楽しそうにステップを踏む。つまんねー二元論なんかに振り回されず、楽しく踊ろうぜ。希望は胸にしまって、今の物語を楽しんだほうが精神的によろしいと思うよ。まあ、好き好きだけど。丘の向こうを見ても、くれぐれも絶望だけはしないでおくれ。というわけで、なつみかんオフ、楽しみにしています。