映画「ヒミズ」感想

映画「ヒミズ」感想
 風に揺れる木の葉の音が津波の音に聞こえた。そんな映画である。
 古谷実が約10年前に週刊ヤングマガジンで連載したマンガを、ここ数年動向が注目されるようになった園子温監督が映画化した。主演の二人がヴェネチア国際映画祭で最優秀新人俳優賞を受賞しニュースにもなった。いずれにしても今年、早くも最大の注目作のひとつが公開されたわけである。
 まず最初にお断りしなければならない。私は、古谷作品に関心がない。「稲中」が話題になったのも知ってはいたし、その後の暗い作品「ヒミズ」もタイトルだけは見聞きしていた。だが、読もうという気にまでは至らなかった。だから、今回映画化の報に接して、ようやく初めて古谷作品を読んだわけである。
 原作が、連載当時から3.11直前まで蔓延していた日本の閉塞感を捉えていたのは間違いないだろう。そのような感覚は、近年公開された若者が主人公の映画について「けいおん!」と絡めて書いた記事(http://www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa/kansou/k-on.html)で触れているけれども、引きこもりにしろニートにしろ、若者を閉じ込める要素を精神的な弱さに求める点に、多少の強引さを感じてはいた。いくらなんでも、そこまで若者は弱くないだろう、と。いっそのこと映画「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」(監督・脚本:大森立嗣)のような孤児の主人公というわかりやすい設定の方が明解ですらあった。「ヒミズ」も同様に、母に捨てられ父を殺すという普通(とりあえず「普通」の定義は棚上げしとく)ではない状況を提示することで、行き場のない主人公・住田の精神状態を突き詰めていった。それだけに、物語的にはあまりにも都合が良すぎるキャラクターである茶沢・彼女が何があろうとも住田を愛し奉仕し続ける姿も、住田の絶望(原作では、茶沢の対照として得体の知れない住田だけ見える化け物が登場した)と茶沢の希望という対立構造によって、屹立することが出来たわけだ。
 映画は、この絶望の象徴として登場した化け物の代わりなのだろうか、3.11の大震災によって瓦礫の山と化した街並みを執拗に捉える。ドキュメンタリー映画やテレビではすでにあるが、あの景色をフィクションの作品としてフィルムに収めた点だけでも、この映画は価値があるだろう。今後、現代日本を舞台にしたときに避けては通れない出来事として震災をどのように扱うのか、その一つのやり方が早くも提示されたと言えよう。映画の冒頭は、まさに被災した街並みから始まるのである。原作とは違う、圧倒的な「何か」を突きつけてくる映像に、鑑賞者は絶句するだろう。
 原作のキャラクターの設定が大きく変更されたのも震災を扱うという点で大きな意味を持つようになった。住田の同級生たちは、直接被災することはなかったけれども、夜野をはじめとした彼らを浮浪者とすることで、ひょっとしたらありえるかもしれないという現実感を生んだのである。住田の元に集う浮浪者5人のうち二人が被災者という設定なのだ。一人は被災して会社が潰れてしまった元社長の夜野、一人が家族を失った中年男性……
 瓦礫の街並みの中を徘徊する夜野の姿と同時に、ヴィヨンの詩を豪雨の中で読み上げる茶沢の仁王立ち姿が映される。大声で叫ぶ彼女の迫力ある声と舞台じみたその演技は、過剰で大仰で、時には大きなBGMで物語を高揚させる園子温映画に相応しい立ち居である。
「―狂気がお前を捕らえたようだな ―吊るされたせいかしら
  ―分別はまだ残っているか ―ミルクに浮かんだハエのうち
  ひとつは白 ひとつは黒 白は白 黒は黒
  ―それだけかい ―お気に召さぬなら
  もう一度言い直そうか
  ―お前には見込みがない ―地上でやり直したいところだが
  ―もうお前に言うことはない ―一人だけでもやっていけるさ」
 ヴィヨンは15世紀のフランスの詩人である。パリ大学を卒業しながら人を殺し窃盗をし、絞首刑を言い渡されながらも減刑され追放された。上の詩は、絞首刑を言い渡された時の心境を自身を心と身体の二つに分けて自問しているという「心と身体の論争」である(1/17追記:茶沢が朗読した詩は「軽口のバラード」の一節でした、ごめんなさい
 「牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる、
  どんな人かは、着ているものでわかる、
  天気が良いか悪いかもわかる、
  林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる、
  樹脂を見れば木がわかる、
  皆がみな同じであれば、よくわかる、
  働き者か怠け者かもわかる、
  何だってわかる、自分のこと以外なら。」)。
 ヴィヨンの詩を読み上げる彼女の心境は、まさにヴィヨンの詩の中の言葉に合致していたのかもしれない。
 原作との相違点として無視できない茶沢の家庭環境の描写が、引用した「心と身体の論争」の内容そのものなのである。多額の謝金で一家心中を計画しているらしい茶沢家の描写もまた住田の境遇同様にキチガイである。これが出来たら死ね、という茶沢の母親が指し示す先に作られた首吊り台について触れるのは野暮だろう。
 こうしたキャラクターの設定変更により、原作では絶望の対照として描かれた同級生たちの住田に対する愛情や友情が、一人の少年を救おう!立ち直らせよう!と右往左往する大人たちの姿として滑稽さを醸しつつ、映画ラストの絶叫に向かって収斂していく必然性をもたらすのである。何故なら、ラストの言葉は、映画の授業シーンで教師が語る歯の浮くような台詞として繰り返される「夢を持て」「がんばれ」「みんな特別なんだ」と、ほとんど違いがなかったのである。
 パンフで「希望に負けたという敗北宣言」と語る園子温監督の言葉が、物語作家として震災と向き合ったときの絶望感を端的に表している。どんなに言葉を尽くそうとも、どんなに優れた物語を紡ごうとも、どんなにカッコいい映像表現を魅せても、震災の前では全てが無意味なのかもしれない。本来、主人公に味わえさせるべき絶望を、監督自身が味わっていたのだから、原作と異なるラストになるのは致し方なかったのかもしれない。
 だが、たとえそのような経緯があったとしても、映画と原作は正反対のモチベーションを観客に与えた点は、連載マンガと、あらかじめ完結する時間がわかっている映画の違いを監督がしっかりと把握していたからである。プロなんだから当然といえば当然なのだが、それすら出来ないマンガ原作映画を観てきたので、冒頭で住田が銃をこめかみに当てるシーン→暗転→銃声という演出は素晴らしかった。
 連載マンガを引っ張ったのは、おそらく住田はこの後どうなってしまうんだろう? あの化け物は結局何なんだろう? というキャラクターの行動に対する好奇心があったはずだ。凶行は果たせるのか、自殺するのか、それとも自首するのか、あるいは茶沢と……そういう予測の付かない・先の読めない展開が連載物の楽しみだ。映画は、原作のラストの場面を想起させるシーンを冒頭に持ってくることで、彼は本当に自殺してしまうのだろうか? そもそも銃はどうやって手に入れたんだろうか……というキャラクターへの感情移入を促し、あるいはキャラクターの結末がとても気になる導入部として機能しているのである。だから住田の心情が、希望と絶望の間を激しく揺れ動くさまだけでストーリーとして成立する。「決まってるんだ」という原作ラストの化け物の台詞を、映画は冒頭に映像として演出し、本当に決まったことなのかどうかを観客に問いかけたわけだ。
 幸い園子温の過剰すぎておかしささえあるキャラクターの言動は、原作の持つコメディ要素と同調し、特に前半の茶沢のストーカー行為や、彼女が土手をすっ転がっていってパンツ丸見えとか、夜野がリンゴを食っているところとか、笑ってしまうシーンが原作をそのまま映像化したような気分にさせてくれる。夜野を演じる渡辺哲の持つ佇まいのおかしみもあって(彼が他の浮浪者たちとワイワイと楽しげに踊っているシーンは、映画「ソナチネ」で沖縄の踊りをするシーンを思い出した。つくづく、住田や茶沢を演じた二人と同年代の役者でなくて良かったと思う。あのなんだか憎めない情けなさっていうのは、ちょっと前なら柄本時生がやっててもおかしくなかった役柄だけど)、マンガのキャラクターを役者に演じさせるとは、こういうことなんだよ!と園監督が他のマンガ原作映画の監督に言っているような気になった。
 さてしかし、だからといって、全てがはまり役立ったわけではない。肝心の主人公・住田である。演じた染谷将太は茶沢を演じた二階堂ふみ同様に熱演だったが、熱がありすぎて原作との違和に戸惑ってしまった。
 彼の憤りは「普通」に暮らせないことだった。クズな両親で学校に行けなくなってしまった境遇、紙袋に包丁だけ入れて街中を徘徊する後半の展開、そしてラスト。読後の印象は、とにかく住田が淡々としていた、ということだった。押し寄せる絶望に抗うのではなく、諦念し自滅していく。そんな感じだった。確かに彼は父親の借金を取りに来た連中に唾を吐き生意気とも言える口を聞いた。けれども、その口調は実におとなしかった。攻撃的な様子がほとんどない。だが映画は、反撃したくなるような暴力を住田に浴びせるのである。当然、彼の台詞は絶叫調となる。原作と同じ台詞なのに明らかな違うテンションが染谷将太の口から発せられ、またそれをねじ伏せようとする借金取りの力が画面で執拗に描かれる。そのくどさは、時に劇中のテレビから流れる原発を含めた震災報道のくどさと重なるが、これは物語の時期が時期だけにありえるとしても、暴力シーンは、絶望に対して自ら身動きを封じる(茶沢が言うところの「君は今 自分で決めたルールにがんじがらめになっているだけだよ」)原作の感覚が、絶望に打ちのめされるような感覚に刷り返られてしまったのである。絶望=震災と感じる観客がいても不思議ではない。
 もちろん園子温映画として、身体に直接語りかける演出は実に園子温らしいテイストである。けれども、原作のファンにとって、この感覚の違いはどのように受け止められるのかは気になる。
 いずれにせよ、マンガ原作映画としてはもちろん、今年の話題の一本としても必見であることは間違いない。

映画「ヒミズ
 脚本・監督:園子温  原作:古谷実
 音楽:原田智英  撮影:谷川創平  美術:松塚隆史  照明:金子康博 録音:深田晃  編集:伊藤潤一
 主演:染谷将太 二階堂ふみ/渡辺哲 諏訪太朗 川屋せっちん 吹越満 神楽坂恵光石研 渡辺真起子 モト冬樹 黒沢あすか 堀部圭亮/でんでん 村上淳 窪塚洋介

※文中で引用した詩は、「フランソア・ヴィヨンの心と身体の論争」http://poesie.hix05.com/Villon/13debat.htmlから引用しました。