映画「R100」感想

映画「R100」感想
 ひどい映画だ。
 世間的には有名な芸人が監督したという理由から作品をなんだかんだと理屈をつけて評価・批評しようとする向きもあるようだが、そんなことは映画の出来となんら関係ない。松本人志論に最初っから興味がないし、同じ芸人出身の監督だからといって北野武と比べるなんて、北野監督に失礼極まりないだろう
。「風立ちぬ」を宮崎駿を鍵に映画の話じゃなくて作家論ばかりをあれこれ語られるのも個人的に面白くなかったのを思い出す。もっともあの映画の出来には満足しているけれども。
 さて、本作は繰り返し述べるが愚作である。ごみクズといっても差し支えないだろう。観る価値もない。そもそも観るという言葉をこの映画に使うことさえ憚られるし、映画と言うことすら恥ずかしい。出演した役者の方々にはお気の毒としか言いようがないけれども、それでも映画館でそれなりの規模で公開されてしまった以上、映画には違いないのが歯がゆいところである。
 とりあえず興味あるとか思っている諸氏は見ないことをお勧めする。テレビで放送されたときに、みんなで実況しながら突っ込みを入れるのが楽しい見方だろうが、それも本作のラストカットのような徒労感に見舞われるに違いない。
 さて、本作は、モデルまがいの容姿の女性がトレイで用を済ませる場面から始まる。用を足しても水を流さず、鏡に向かって化粧をする。颯爽とトイレから出た女性は、待っていた男性の机に腰を下ろして足を組む、いかにも居丈高だ。男性は、第九の喜びの歌について口調滑らかに解説し、コーヒーカップを口に運ぼうした刹那、女性の蹴りを顔面に食らうことになる。トイレで鼻から出た血を拭い、女性がほっぽいた流されないままのそれを見つけるや、流して後始末をする。男性のアップ。
 主人公がこの中年の男だと知れる最初の場面で、何か謎めいた雰囲気がすでに醸し出されている。暗い質感の画面がそれを煽った。
 喫茶店を出た女性を追う男は、女性を見失った直後に突然暴行を受ける。激しい蹴りを浴びて階段から転がり落ちる男は、コートを脱いでポーズを決めた女性を見詰めながら、ゆっくりと顔を歪めていった、恍惚の表情である。
 男は途中退会の出来ない一年契約のSMクラブに入会していたのだ。屋外で唐突に始まるSMプレイという緊張感が売りのクラブである。だが、その売り文句とは裏腹に、家具販売の勤務中の男はやたらと時間を気にしていた。唐突に始まるというのは、全くの嘘だったわけである。
 もちろん、その嘘は観客に対してのものでしかなく、男は指定された場所や時間を守りながら、日常の中でSMを味わえるという気分に高揚していった。仕事にも精が出た。
 家族は一人息子との二人暮らしのようで、妻が長期にわたる昏睡状態であることが後に知れる。たびたび妻の父がやってきては、ささやかな宴に幸福を覚える。
 前半の流れは、実際には緊張感なんてないSMプレイのいくつかを男の日常風景の中の非日常として追体験することになるはずなのだが、そこで行われるプレイ内容は、およそ幼稚な空想の域を出ていない。男の快感は顔で表現され、勃起のような性的表現がまったくない。記号めいたSMプレイは、ひょっとしたら何かしら意味深な主題がこめられており、寓話なのではないかと言う予感がほのめいてくる。
 それを決定付けたのが「揺れてる?」という台詞である。
 前半2回出てくるこのシーンで、観客はおそらく大震災を想起するに違いない。何かとんでもない天変地異が起きる前触れであり、SMもなにかしら大きな意味があるのかもしれない。映像的にも物語的にもなんの盛り上がりも愉しみもない展開が続く中、そうした予感だけが物語を見守り続ける原動力になっていた。やがてSMプレイは男の職場にまでおよび、これはやり過ぎだろうという男の激昂を招くと、いよいよ謎の男が登場し、SMクラブとの対決の様相を呈してくる。
 こうして前半のあらすじを書くと、自分でも何やら面白い映画のような気がしないでもないから不思議である。けれども、前述したように緊張感がない。日常(息子との触れあい・入院中の妻の見舞い・仕事など)と非日常は物語のはじめから区別されておらず、淡々と日常が描かれており、SMもはじめから日常の一部として描かれてしまっている。SMが男の日常を蝕んでいく……というような展開にはなっているけれども、SM自体も一般的にSMの知識がない私たちが想像できる範囲内のものでしかない。簡単に言えば、つまらない映像の連続でしかないのだ。だからこそ、「揺れてる?」という伏線と、SMクラブと対決するという物語上の盛り上がりは、後半の面白さを決定付ける要素となるはずなのだ。
 ところが……。
 ところが、この映画は観客(というか私だけど)が予感していた展開を最悪の形で裏切る。メタ化・劇中劇である。この男の物語は、100歳になるという監督が撮った意欲作だったのだ。
 ロビーで苦々しい表情で座ってタバコをくゆらす男たちと、対面する立ち尽くす二人の男女。座った男がおそらく映倫だかなんかの人たちで、男女は映画のスタッフと思しきことがわかってくるわけだが、途中、メモ帳を広げた一人の男が忙しなく映画の突っ込みどころを述べ立てた。あれは何? これは何? と説明を求めると、監督の意図を聞いていた二人がぼそぼそと説明する。そして、揺れているっていうのは何かという質問に及ぶと、実は特に意味はない旨の台詞をスタッフが呟くのである。
 予感が全て崩壊した瞬間は、物語そのものが本作の映画監督によって潰された瞬間でもある。
 劇中劇が判明して以降、物語はストーリーの辻褄合わせを放棄し、瓦解していく一方となる。丸呑みの女王によって物語そのものが飲み込まれていくように展開は先細り、コメディは上滑り、ほとんど出落ちばかりだったネタは、劇中劇は100歳の監督がやったことであり本監督の責任ではないと言わんばかりに羞恥をかなぐり捨てて画面を埋め尽くしていく。浪費でしかない。時間の無駄だ。大事なことなので二度言うがごみクズである。ネタバレに配慮するのも馬鹿馬鹿しい。
 脚本上はそれなりのつながりが意識されていた。冒頭の喜びの歌がクライマックスで男の喜びと重複して合唱される展開や、息子が妹を欲しがっていると寝ている妻に語りかけるシーンが、ラストのSを身ごもる展開に一応つながっている。S気質の女の子(女王様)が生まれてくるのだろう。
 だがそれも劇中劇でしかないのだ。エンドロールが終わり、多くの観客がため息を付いたであろうことを予想したラストカットを、映画の評価を監督自ら決めた自虐ネタと好意的に見るとしたら、余程のお人好しだろう。はっきり言ってやればいい、この映画は糞ほどの価値もない、と。一日でも早く上映が終わることを願う。
(ちなみに北野監督4本目の「ソナチネ」は、イギリスのBBCが1995年に行った「21世紀に残したい映画100本」に選ばれるなど、欧州で高い評価を受けた。松本監督の本作は、さながら「観たことをなかったことにしたい21世紀の映画1本」に見事選ばれることだろう)。