ピキピキピッキー

 漫画原作映画ということで、南Q太原作・古厩智之監督「さよならみどりちゃん」をさくっと観てきた。まずひとつ断っておく、私は古厩監督を贔屓していることと南Q太作品に飽きているということ。で、原作について私はたいした思い入れがない点を除いても、確かに南Q太出世作だろうけど決して評価されている作品という印象を抱いていない。がんばって長編描きました、という感じである。だからというわけではないが、映画のほうがはるかに面白かった。
 主演の星野真里が脱いだ乳首見せたとかの方に話題を傾けたほうが楽しいんだろうけど(個人的には西島秀俊がこの映画と「メゾン・ド・ヒミコ」も含めて、星野真里岩佐真悠子柴崎コウ村石千春の四人の女優とキスしまくってるほうが気になる)、まあその点が気になる人にはっきり言っておくと、終盤のゆうことユタカのやりとりはほぼ全身晒して原作に近い展開を見せているので、それが目的の人は劇場で見ても損はないだろう。暗に胸を避けて隠して撮るようなこともなく、やまだないと原作・廣木隆一監督「ラマン」で明らかに胸を隠し続けた主演の安藤希と比べるのも失礼なほどの女優っぷりである。
 さて、映画の内容。ゆうこを演じる星野真里、ユタカはいろんな映画でまくりの西島秀俊、二人の力が大きいだろう。漫画原作だからといって殊更原作の風貌に近づけるような無駄な努力はしない、原作の雰囲気ではなく、映画の雰囲気を作る努力をしている。というのも、物語は原作に驚くほど忠実で、原作どおりの台詞がいくつも出てくるのに、印象深い場面は原作にない場面ばかりなのである。これは原作がいかに粗いものであったかの証左といえよう。
 映画の冒頭はゆうこが初めてユタカとセックスする場面である。ここでもう原作と違うが、ことを終えてユタカにみどりという彼女が沖縄にいることを知る場面で原作と重なり、ここのモノローグが「ユタカの中で溶けてしまう」というような、またも原作にない言葉を選ぶことで、映画に一本の筋を通している。原作のエピソードは原作にない場面を補完するような按配なのである。カラオケ嫌いという設定も映画では最初に布石を打っておく、スナックの面接は原作よりも丁寧に描写され、そこで私は歌が下手ですというようなことを言わせる。全体的な印象としては、原作を推敲・叩き直して物語を再構成したという感じだ。だから原作のダイジェスト版に堕しやすい原作付映画の愚は回避され、また南Q太作品にありがちな主人公が嫌だと思う人物は必要以上に醜く描かれやすいこともない(スナックのママ役は佐々木すみ江、ゆうこに迫る客も普通のおっちゃんという感じの俳優)。それでも原作に忠実だなーという印象が残るのは、前述どおり原作と同じ台詞を使っているからだろう。いやほんとに上手いよ、原作の使い方が。これは脚本の力なのかな。
 この映画の山場は、ゆうこの疾走シーンである。原作にないでしょ。まあユタカに手を引っ張られて走る場面はあるけど(映画にも同じ場面がある)。原作には登場しないみどりちゃんがちらっと登場する。ユタカが沖縄から帰ってきた彼女をタクシーに乗せるところ。これを目撃したゆうこはそのタクシーを追っかけるのである。もう走りまくってるね。で、もちろん追いつけなくてよろよろしながら家に戻るとユタカが家の前で待ってて、そのまま原作のラストに繋がっていく。ここでも映画の演出が勝っている。ずっと背中を見せて何も言わないユタカ、原作でも印象深いけど、映画ではしつこいくらい背中を向けたまま何もしゃべらない。モノローグの説明に頼っていたこの場面が、映画ではものすごい緊張感に包まれる。原作同様におしゃべりで軽薄で自分勝手なユタカが、ここではただじっとしている。泣き始めるゆうこにしても同様に背中を向けたままである。「うわーん」という原作のような絵はない。そして……(劇場で確認しておくれ)。
 場当たり的な展開を見せた原作に対し、映画はきっちりと構成が練られている。ホステスをやめる理由も、先の迫ってきた客を常連客のひとりにすることで、店には居辛いという予測を生んでいる(もちろん野暮な説明台詞はないからね)。「溶けてしまう」と言っていたゆうこも終盤は「溶けなくなった」と語り、ユタカとの関係が変化していることをほのめかす。ラストはかなり爽快だった。原作みたく閉じていく物語というよりも、ユタカという呪縛から解かれてはしゃいでいるゆうこに、いやーよかったよかったと、何故か安堵した。