映画「ストロベリーショートケイクス」感想

 さて、漫画原作映画ということで、映画「ストロベリーショートケイクス」の感想。
監督:矢崎仁司  脚本:狗飼恭子  原作:魚喃キリコ
撮影:石井勲  照明:大坂章夫  録音:古谷正志  音楽:mirokue
美術:松本知恵  編集:多田徳男  劇中画:高木紗恵子
プロデューサー:浅井隆  制作:アップリンク
主演:池脇千鶴 中越典子 中村優子 岩瀬塔子/加瀬亮 安藤政信/杉村蝉之介 伊藤清美 趙萊和 前田綾花 宮下ともみ 桂亜沙美高橋真唯 矢島健一 いしのようこ 奥村公延 中原ひとみ

 原作の印象深いエピソードをなぞりつつ映画独自の色も濃く縁取られていた、佳品だと思う。四人の物語を淡々とつないでいた連作に近い原作・それでも一本の話としての筋が通っているので、バラバラの各話を映画一本の作品としてまとめ上げるは至難かとも思えたが、脚本の力だろう、いろいろな予感をはらみつつ気持ちのいい(それこそラストシーンの四人が浴びている潮風のような)余韻があった。
 ま、抽象的な感想はこんくらいで、まず原作のおさらい。魚喃キリコ「sttrawberry shortcakes」(2002年)は、作品別感想(ちなみにこれhttp://www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa/kansou/strawberry-shortcakes.html)でも触れたけど、四人の女性のとりとめのない日常の一瞬を切り取って短い挿話にまとめ、それを繋げていくことで彼女たちの感情の変化をゆったりとモノローグで綴りあげた作品である。ちひろ、塔子、秋代、里子。ちひろと塔子はルームメイトとして一緒に暮らしている以外、彼女たちの関わりはない。それでもひとつの作品として成立しているってのが原作の面白さだった。
 脚本の狗飼は、この原作の面白みを尊重しつつ、里子と秋代は知り合いであるという関係に変更する。そのため原作の飄々とした里子の雰囲気は、演じた池脇はもうベテランと言ってもいい達者な態度で里子になりきっていたけど、秋代の働くデリヘルで電話番のバイトをしているという設定がために、違和感を抱いたが、原作既読者だけの感想だろうか。まあ、そうでもしなければ四人の関係を一つのものとしてつむぎ難いという面もあったのだろうし、ラストにも繋がらないからな、致し方ないのかもしれん。で、さらにもう一工夫して四人の関係性を強めるのが「神様」である。原作では秋代が「ああ神様 わたしあの人が好き」といった言葉を、四人にそれぞれ意識させる。映画と原作との違いを私がもっとも強く感じたところであると同時に、原作とは切り離して、一本の映画としてとても楽しめたものにもなった。
 映画は里子(池脇千鶴)の失恋の場面からはじまる。悲惨というか、劇中、数少ないマンガチックな演出、引きずられる彼女はその後すっくと立ち上がって「恋がしたいなー」と決め台詞のように呟くキャラクターとなる。原作でもただひとり明るさを前面に押し出していたが、映画も同様に、積極的にコメディリリーフ的役割に徹している。池脇はやっぱこういう役のほうがいいな。他の三人がとにかく暗い感情を引きずっているので、冒頭でこれを断ち切っている里子の言動は明瞭で、ほとんど主人公と言ってもいいくらいの存在感である。
 ちひろ中越典子)と塔子(岩瀬塔子(もう魚喃が演じてるのはわかっているんだが、パンフではなんでか別人のごとく扱われていた))の設定は原作を踏んでいる。一緒に暮らしていながら影では嫌っている、正直慄然としたもんだが、映画では二人の関係を少しずつ明らかにしていくことで緩和している。
 秋代(中村優子)の設定は気持ち悪かった、ていうかあからさまに狙いすぎだろう。けど、まあこのくらいやってくれたほうがいいかもしれないのか。四人の中で一番暗い感情に支配されている彼女は、墓場に近い貸家だかで殺風景な部屋の、棺の中で寝起きしている。いつでも死んでやる・死ねるっていうことなんだろう。極端なので孤独感ってもんが強烈にあぶりだされている。
 さて、四人が出揃ったところで、彼女たちの場面がそれぞれに映し出される。このバラバラな展開に中途半端さを覚えるかもしれないが、私はそんなことなかった。里子は道端で隕石みたいな石ころを拾う、このへんてこな石を彼女は神様としてお手製の神棚に据えるのである。一方でイラストレーターの塔子は神様を思わせるような絵を依頼されて困惑する。ちひろに相談したところで描けるわけでもない。ちひろにとって神様は彼氏なのだ。ちひろは同僚の永井(加瀬亮)と関係を持ち、彼との関係に夢中になっていく。常に死を意識している秋代にとっての神様は何もない。彼女はひたすら菊地(安藤政信)への想いを隠し続けながらスーパーで買ったトマトを実家から送られてきたものの余りものという大義をこしらえて彼と会う。神様っていうか、要は信じられるもの・本音を言える相手ってことなのかもしれないけれど、そうだとすれば、それは友達ってことになるのかもしれない。彼女たちは、表面上は笑ったり楽しんでいるようだけど、たとえば、ちひろが同僚の自分に対する陰口を聞いてしまったり、拒食症の塔子が仕事のストレスを吐く苦痛に代償したり、その典型が菊地と酒を飲む秋代の、普段の生活からは想像も出来ない笑い声である。だから正直に生きている里子の場面になると、ほっとして、ちょっとした仕種やセリフに微笑んでしまう。
 物語はそれでもしっかりと山場に向かっていく。菊地が自宅で彼女といる場面を目撃した秋代は、里子の実家でもらったトマトを道に捨ててしまう。その中の潰れていない一つを通りすがりの塔子は拾い、家に持って帰ると、創作意欲がわいたのか、猛烈な勢いで徹夜して神様みたいなものを描ききる。バイト先の店長に言い寄られて押し倒されて神棚の石ころに「店長は死ねばいい」と願を掛ける里子。永井との関係が冷えていくちひろ。確かにバラバラだけど、四人がまとまっているような錯覚があるのは、神様とのつながりなのである。
 でもね、私がこの映画に拒絶反応を示す場面がいくつかあるのもまた厄介だったりする。性描写である。原作ではほとんど影を潜めていた・デリヘル嬢の秋代でさえはっきりと描かれなかったそれが、映画ではえげつないくらいに描かれる。全然いやらしくもなければ艶やかでもない。はっきり言って汚い。正視できない。極めつけが二箇所ある、永井に拒まれたことを確信したちひろが、他の男とことに及んで顔に精液をかけられる場面。誕生日に誰も祝ってくれない哀しさが、それを拭うことで表現されているのだ、まるで涙のように。もう一つが店長の葬式、里子は石ころが怖くなってしまうんだが、まあそれは置いといて、その葬式で店長の小さな娘が店長の妻・母親の傍らで座ってて、スカートめくりあがってパンツ丸見えなのである。夫の死に号泣する妻。だからなんだろうか、秋代が酔った勢いと称して菊地に迫ってセックスする場面においても、嫌悪感が先にあるのよね。秋代の望みが叶えられるとともに哀しいとこなのに、なんかすげー汚いことやっているみたいな濡れ場なのね。気持ち悪ささえ覚えた。
 まあ不満はそんくらいで、塔子とちひろの関係なんか上手いんだよな。塔子はちひろの日記を読んで自慰してるし、ちひろは飼っていたハムスターを放置してしまうし、互いに嫌っているところが表出してくる。ハムスターの死、それを塔子はスケッチして机上において知らせるも、ちひろはスケッチを握りつぶして死体を無視。塔子は文句言いながら亡骸を土に埋める。二人の感情はやがて口喧嘩に発展、ここは原作どおりだな。で、原作で私がもっとも感動した場面・吐く塔子をちひろが見つける場面がきっちりと映像化されてて、二人は抱き合って、お互い身勝手に誤解したまま嫌いあっていたことを知るっていう流れに感激した。
 原作との相違は、担当編集者の失態で紛失した塔子の絵が、里子の新しいバイト先で客の忘れ物のひとつとして発見されたことである。里子はよくわかんないけどきれーな絵だなーとそれをもらってしまう。神棚の石ころも取っ払って、それともども秋代にプレゼントしようというわけだ。秋代は妊娠していて(おそらく菊地の子)、田舎に帰って生むらしい。秋代は菊地は手に入れられなかったけど、その分身を手にした。一方、永井との関係を清算して勤めを辞めたちひろは田舎に帰る、見送りにきたはずの塔子は新幹線から降り損ねて(マンガチックな場面がまたここに)、そのままちひろの田舎に一緒にやってくる。四人は、ここではじめて同じ場所に立ち会うことになる。ラスト、原作には全くない彼女たちの出会いを予感させて、エンドクレジット。拍手。