映画「赤い文化住宅の初子」感想

映画「赤い文化住宅の初子」感想
 さて、漫画原作映画ということで。原作・松田洋子、監督脚本タナダユキ、映画「赤い文化住宅の初子」。今年の漫画原作映画の中でもっとも原作の持ち味を損なわず、それでいて漫画にはない映像の力を存分に味わうことの出来る作品である(ちょっと大袈裟か、でもそんくらいの私は良かった)。
監督・脚本:タナダユキ 原作:松田洋子
撮影監督:下元哲 録音:湯脇房雄 美術:石毛朗 編集:渡会清美
音楽:豊田道倫 主題歌:Moor/UA 配給:スローラーナー
主演:東亜優 塩谷瞬 佐野和真鈴木慶一 鈴木砂羽 桐谷美鈴/坂井真紀 浅田美代子 大杉漣
 原作と映画の違いはモノローグである。原作にはところどころに初子の赤貧を嘆く独白が挟まれていた。彼女の感情が、深いため息と暗い表情とともに描写されていた。映画はモノローグがほとんど排される。セリフとして感情が吐露される場面も少しあるけれども、ひとりごちながら家でごろごろしている彼女の姿は、ひとりになって・朽ちかけたような寂れた文化住宅でも唯一安堵できる空間として彼女が本当の姿でいられる空間として、その重要性が強調される。
 さて、これから映画の内容を詳しく書いていくので、ネタバレを厭う方はご注意を。


 冒頭は原作をなぞる。三島(佐野和真)と勉強に励む初子(東亜優)だが、バイトの時間ということでそれを中断してラーメン屋で働く。ぶっきらぼうな店主や男どもがひしめく店内でびくびくしながら働く彼女は、給料袋の中身を見て愕然とする。安い時給、「金、金、金」と呟きながら彼女は家路に就いた。この呟きが旋律をようにタイトルが入る、「赤い文化住宅の初子」。「死ね」と言ってポストを叩く初子。
 この映画で面白いのは初子の空想や置かれている立場が、彼女の感情を入り混ぜつつ唐突に挿入されるところである。もちろんすぐに、これは初子の回想だ・空想だとわかるけど、原作のモノローグがこれら映像に置き換わっていると見ていいだろう。「赤毛のアン」を引用し作品の鍵としているだけに、空想癖のあるアンと初子が重なる意図もあるに違いない。原作でも重要なアイテムだった「赤毛のアン」が、映画ではさらに強調されているわけだ。たとえば初子が三島とアイスを食べる場面で、彼女は近くを通る親子連れを目撃する。もうすぐ赤ん坊が生まれることに嬉々とする風船を持った子どもの笑い声と大きなお腹をなでる母、「お兄ちゃんになるんだぞ」と語る父。初子の空想は、三島との新婚生活にジャンプする。広っぱでままごとをしている映像として、出勤を見送るお腹の大きな初子。でも初子の空想は、子どもが持っていた風船に引き寄せられる。どんどんふくらんでいくお腹は破裂する、風船として。風船が割れて途端に泣き叫ぶ子ども。初子の空想は、時に滑稽な時もあるが、多くは母との思い出や自身の感情として映される。
 三島と一緒に東高を目指して勉強に励む初子だが、怒りっぽい兄(塩谷瞬)の言葉とバイトを首にされたこともあって、高校進学を諦めてしまう。進学後の自分たちの姿を夢見ている三島がのんきすぎて腹が立つほどである。彼女は言葉が少ない中、それらの感情を表情や動作で表現する。偶然通りかかったおばさん(浅田美代子)に、憐れみとしてだろう貰った五千円を、服と参考書代に充てるものの、参考書は投げ捨ててしまう。そんな彼女は、いつも暗い顔をし、うつむき気味で、目もうつろ(これらの表情は原作の初子を十分に想起させる、東亜優はかわいい表情をしているけれど、映画の中ではほとんどつまらなそうな顔をしている。原作に雰囲気がそっくりだ)。まったく覇気がない。友達もいない様子で、昼食もひとりらしい。初子は貧乏暮らしを恥じている、高じて他人を避けるようにもなってしまう。それが彼女の孤独を煽る結果になっているのだが、同時に他人と明らかに違う生活を余儀なくされていることを痛感させられてしまう。それらも空想としていくつか挟まれる。この威力が切ない。
 ぽつぽつとおにぎりを食べる初子に一緒に食べようよと声を掛ける同級生。別に何の悪気もいやみもない。彼女たちは純粋に初子と食事がしたいらしい。おそるおそる近づいて机を囲む輪に加わった。おにぎりだけの初子に、一人が玉子焼きをあげる。ありがたくいただく初子だったが、努めて彼女たちの会話に加わることはなく、場面は唐突に、教室内でひとり食事をする初子の絵になる。玉子焼きをのせた弁当の蓋(?)を片手に・おにぎりを片手に、初子の壮絶な孤独感がここに描かれる。あるいは、中学卒業を翌日に控えた同級生たちが談笑している教室に戻ってきた初子は、その中に三島の姿を見つけ、表情が少し和らぐ。けれども、卒業後就職するという初子に、働こうと思えばなんだって出来るんだってテレビで言ってたよと無邪気に語る彼等の会話は、テレビも電話もない初子にとっては異次元の言葉が飛び交う世界かもしれない。机が壁のように築かれて初子と同級生たちが隔てられる感覚が、そのまま映像になる。積まれた机の隙間から見える彼等の言葉は、初子に届かない。初子に結婚しようとまで言った三島でさえ、彼女の孤独にはなかなか気付けない。
 一方で兄と妹のささやかな交流も描かれる。原作にないものもあって、二人の絆の深さがよりはっきりとしている。部屋にデリヘルを呼ぶ兄、飲んだくれて帰ってくる兄。妹はポストに入っていた風俗の宣伝のチラシを丸めようとするも、「お兄ちゃんがいるかも」と元に戻すというおかしさ(これは原作にもあるか)。コロッケを二つ買っている兄を目撃した妹が、夕食に出されたそれを半分くらい食べたところで残りを兄に譲る思いやり。電球が切れたと言う初子にさっさとそれを替えてやる兄の思い。家にいる初子は、ほとんにかわいい兄思いの妹だ。極めつけは、夜中、不意に起きた初子が三島から貰ったマフラーを顔に当てて、彼の思いをぬくもりとして思い起こそうとしたのか。しかしマフラーはバッグのどこかにひっかかけって毛糸が一本引き伸ばされてしまう。ここで母(鈴木砂羽)とあやとりをした回想が入る。すでに亡くなっていた母は、初子の心の拠り所でもある。母が好きだった「赤毛のアン」の本を、アンは嫌いだと言いながら大事にしている。その毛糸であやとりをしているところで、起きてきた兄に、この続きどうするの? と呼びかけると、器用に毛糸を操る兄。二人が共有している母との思い出。なんか眺めているだけでじーんとしてしまう場面だった。
 五千円をくれたおばさんと偶然再会した初子は、彼女に怪しげな宗教団体の会合に連れて行かれる。ここもいかにも変人たちでございといった風情の溜まり場だった。おばさんが過剰に親切なのも、宗教心あってのことだったわけだが、この会合の別室で酔っ払ったところを拾われた担任教師・田尻(坂井真紀)が寝ていた。原作ではだらしなく教師の仕事を全然しないこの女、映画ではかなり重要な言葉を残す役回りを与えられている。初子の暗い表情の中に、いつも誰かが助けに来てくれると思っているだろ? と、核心を読みとるのである。実際、初子は空想癖も含めて常に誰かから差し伸べられる手を待っている節があった。敏感に察していた兄は「俺に期待するな!」と激昂するにとどまっているが、田尻の言葉は、初子の境遇を思えばいたし方のない感情をバッサリと切り捨てる。どこかで初子を憐れんでいた私自身の感傷も同時に切り捨てた。
 卒業式の前日、三島ら同級生との間に壁を痛感した初子は、三島の制止を聞かず教室を飛び出す。追いかけてきた三島に向かって初子は靴を投げた。長い間。アンよろしく王子様を期待する初子、勝手にせえやと去っていく三島。靴を拾ってもらえず、初子「やっちもなあわ」。原作と全く同じこの場面も、孤独感を煽る空想や田尻の言葉によって一段と凄味を増している。そして卒業式の日に迎えに来る三島、慌てて制服に着替える初子、やっぱり王子様を来てくれた……
 この後も原作同様に父(大杉漣)が登場して自宅が燃え大阪に行くために三島と別れる展開になるわけだが、これまで淡々と積み上げていた物が終盤で収束して爆発、強烈な印象を鑑賞者にもたらす。
 まず初子の顔である。終始うつむく彼女を明るく照らす家の電球は、彼女が安らげる場としての温かみもあった。鍵を失くし兄がいるかもしれない街にふらふらと入り込んだ先で見た店々の明るい看板や電灯はうるさいだけだ。だが、彼女の顔を最も美しく照らし出す明かりが、自宅の火事なのである。中で燃えているものは、父であり、母との思い出「赤毛のアン」であり、また初子が生まれ育った家でもある。にもかかわらず、まるで綺麗なものに見とれているような表情さえ垣間見せる初子は、劇中、最も輝いた顔をしている感があった。初子の顔を温めるものは、燃えようとも家なのである。
 そして顔を上げる初子。初子は自ら顔を上げることがない。家で一人でいるとき以外、いやひとりでいるときでさえ、寂しげな表情で誰かを待っていた。兄や三島を待っていた。「(お兄ちゃんの)お嫁になるん」「(お父ちゃんと)結婚する」とよく言っていた初子、その言葉はずっと一緒にいたいと同義だった。今また三島と結婚の約束をする初子は、ラスト、三島にキスをされてもうつむいてしまった。このまま初子は顔を上げずにいるのだろうか、そう思った矢先に、彼女は顔を上げて背を伸ばし、三島に唇を寄せた。主題曲のUAの歌声が静かに余韻を包み込んだ。
 タナダ監督をはじめスタッフの方々に、漫画を映画化する意味を感じた気がする。