映画「フリージア」感想

映画「フリージア」感想
 さて、マンガ原作映画ということで、松本次郎原作、熊切和嘉監督「フリージア」
 えー、元々期待していなかった分、好きな役者をスクリーンで見られることに集中していたんだが、挨拶代わりに、原作ファン並びに松本次郎ファンの皆々様方には、ご愁傷様でした、ハイ。原作をどう料理するかってのもこの手の見所ではあるんだが、見所はあまりありませんでした。いや、映画だけを考えてみれば、私はつぐみが好きなんで、たとえば去年の「紀子の食卓」なんかも彼女が出るってんで見に行って面白かったわけで、今回もヒグチ役という原作の艶やかさに欠けるけれども冷淡な役柄はもってこいだから(何せ「月光の囁き」で紗月役やってるし)、配役についてはさして気にしていない。いや、出演者は皆よかったんじゃなかろうか。贅沢な起用してるし。原作でもヒロシに殺される女役に坂井真紀とか、新人執行人に嶋田久作とか、出てきたと思ったらすぐに殺される役をやってる。主役のヒロシを演じた玉山鉄二は、原作のわけのわからなさを排する代わりに(もっとも、映画の求めていたものが、原作の狂気とは違っていたからだけど)無感情で無痛覚症のような、セリフも少ない不気味な存在として映され、唯一原作キャラの雰囲気を残していると言える。原作で当初端役に過ぎないと思われていた山田が存在感を増してくるように、彼を演じた柄本祐も最近の映画「子宮の記憶」で見せた演技力でもって、映画でも中盤以降存在を濃くしていく。残念なのは溝口だろう。三浦雅己はほんとにこういういかれたチンピラ役は似合っているけど(いや、褒めてるんだよ、これ。彼は渋い男も演じられるし)、映画の彼はすぐにキレる単細胞でしかない。彼は終盤にとんでもないぶちきれ様を見せてくれるんだが、意想外どころか、そこまでする彼の姿に、むしろ引く。原作で描かれた彼のヒロシに対する怪奇な感情は一切ない。
 映画の内容を原作に沿って簡単に話そう。まず、敵討ち法の説明代わりに冒頭である男の執行が行われる。新人のヒロシと山田を率いて、はやくもキレ、殺すことに嬉々としているかのような溝口、なんか原作っぽいかもといったところ。次に幽霊との対決。ここまでが中盤くらいかな。そして最後にトシオとの対決っていう感じ。この流れはすべてがヒグチによって一本にまとまっている。これが原作と違うところか。
 まあ、一番大きな違いは、おそらく戦時下という舞台を生かそうとしたのか、ヒロシとヒグチの関係を際立たせたかったのか、「フェンリル計画」なる凍結爆弾の人体実験が15年前にあって云々という脚色である。最新刊8巻の帯には大胆に脚色だなんて書いてあるが、無謀というほうが適切だろう。というのも、原作既読者にとって二人は、レイプの加害者と被害者という関係が成立しているからである。これをその実験の被害者(唯一の生き残り)と加害者(実験体はみんな孤児で、少年兵時代のヒロシが孤児を引率した兵士の一人だった)を救おうとした少年兵という、すぐにも恋愛を想起させる関係に変更しているのである。こりゃひどいと思った。一応話の筋はこの計画に参加した人間への復讐に執念をも燃やすヒグチってことになるんだが、わざわざ謎めいた展開で期待を煽りすぎじゃないか。計画の真相そのものがはっきりしていないんだ、劇中では。
 この後でもう一人、孤児を引率した少年兵でヒロシの先輩だったトシオ・計画の実行者と疑われている軍人の息子が出て来て、物語に決着を付けるためにヒグチと関係を与えたわけなんだろうが、ヒグチは疑惑の段階である軍人の岩崎が痴呆かなんかで執行できない状態であるため、その代わりであるかのようにトシオを対象者に選んだ印象が濃く、動機としてとても身勝手なものを感じてしまうのだ。だから共感できないんだよ、彼女には。
 おっと、ちょっと先走ってしまった。とにかく「フェンリル計画」の首謀者への復讐ってのが中盤から明確になり、そのための布石として幽霊との対決がお膳立てられることになる。優秀な警護人・幽霊と、優れた射撃能力を持っている設定になっている(映画では元兵士だからな)トシオが組んだら大変なことになる、よってまず幽霊を先に叩けって感じでヒグチが暗躍する。対象者隅川に執行手続きを伝えると同時に警護人に幽霊を推挙するのだった。
 だが、この幽霊との対決場面、確かに幽霊然と素早い動きで山田に傷を負わせてしまう。ヒロシにも傷を与える。だが、あっけないんだよな。なんか緊張感に欠けるんだ。ガンアクションそのものは迫力あるんだけど。なんでだろ。玉山の銃を構える姿も様になっているし。血しぶきも派手だし。山田の発狂がないから彼が執行人として自立することもない。溝口がヒロシを狙わないから、彼はひたすら怒って叫んでいるだけの気違いにしかみえない。山田が自立しないということは、当然彼が原作で殺した相手(シバサキ)も映画では溝口が殺すことになる変更を余儀なくさせれるし、隅川とその部下を殺すのも溝口だ。とかく溝口の残虐性を強調しすぎているが、その後の暴挙を描くためなのかね。ていうか、山田はトシオの警護人として登場するんだよね……なんか意味わかんね。
 映画の「フェンリル計画」は、原作のヒグチのレイプを改変した結果なんだろうけど(R指定を避けるためかね。PG12になってるが)、レイプ事件をそのまま脚色するだけで、彼女が復讐に奔走する姿は納得できるんだけどな。実行犯にはトシオもいたってことで。同級生なり姉なり妹も巻き込まれて自殺したとか言う話を追加すればいいでしょ(映画では弟が実験で死んでいる)。敵討ち法は殺人罪にしか適用されないんだから、だとすればレイプ被害者がこれをでっち上げて法律の下で復讐してしまうだなんて、素人の浅知恵かな。映画のヒグチは、トシオへの敵討ち法適用のために書類を偽造(偽造屋というか情報屋らしいのも登場する)し、執行を現実のものとしてしまう。従容と受け入れるトシオ(ちなみに演じたのは映画出まくりの西島秀俊)。トシオとヒロシも少年兵時代の同僚ということで、因縁があり、この二人の関係は原作にはないものだが、ここは納得がいくものとなっている。そのための「フェンリル計画」なのかね。関係付けるのが好きなのかな。
 計画の実験時、任務を遂行したトシオと逃げたヒロシの構図ってのがあって、それが15年後、今度はヒロシがかつてのトシオのように任務を遂行できるか問われるわけだ。うーん、原作との折り合いは難しいな。後半の二人の対決は、個人的に緊張を感じた。やっとこさって感じだが。
 原作では、超能力を思わせる「擬態」なる能力が出てくる。ヒロシは知らず擬態する情緒不安定な設定だ、しかも元特殊部隊に所属していた。映画では、ヒロシの特殊性は排除される。計画の実験に遭遇したために感情を失った人間として描かれる。ヒグチにもそういう面があり、つまり対立すべき関係が映画では共鳴する関係になっている。溝口の暴発によって15年前の実験の現場が蘇る演出も、溝口の言動に引いていたために、伝えたいことはわかるけど画面にのめり込めなかった。
 さてしかし、ヒグチの偽造がばれて彼女の処刑が決まる。だが最初に彼女の元に訪れたのはヒロシだった……。執行を免れて逃亡するトシオと、追われる身となってしまったヒグチとヒロシ。
 ヒロシとヒグチの関係への期待と、ヒロシとトシオの対決への期待が最後に交錯する。ここはいい場面だったなー。雪も効果的だし。原作どおり、雪が舞う中で二人が向かい合って打ち合う姿も潔かった。いい感じの余韻で幕を閉じるだけに、計画の設定の詰めの甘さとか物語の軸の不安定さとか、溝口のキャラ設定の不味さとか、いろいろと気になるところが多く残った映画だったけれども、原作と切り離せば……切り離せばなんとか観られるんじゃないだろうか……