映画「寄生獣 完結編」が踏みにじった原作の風呂敷

映画「寄生獣 完結編」は心の底から駄作だったと言える作品のひとつだが、専門家の方からのこうした指摘に安堵している。

寄生獣 完結編」終盤の問題について
http://www.twitlonger.com/show/n_1sm76rq

素人目にも安易な改悪だなぁと思いつつ、専門知識がないので、なんとも言えなかったけど。
さてしかし、「寄生獣 完結編」の安易な改変は演出面でも取り上げられることができる。
とりあえず、エンタメ+アクションを主体にした前編により、後編となる完結編はさぞかし前編を上回るアクションが期待されるかと思いきや、ストーリーは主人公の新一と里美の恋愛関係に焦点を絞っていき、前編で仄めかしたパラサイトの性質が生かされない展開に加え、母性愛を強調した田村田宮(名前なんてどうでもいい)の死と市庁舎襲撃を同日に行うという暴挙により無駄死に等しい倉森(何故か平間警部も殺されてしまう……なんでや……)など、何故そんなに必死になって映画をつまらなくしていくんだろうと不思議で仕方がない。まあ、そんなことは些細なことだろうし、主観の問題によりところが大きい。(以下主観による余談。パラサイトの性質として、映画では宿主の職業や生活様式がパラサイトに影響されることを暗に示していた。警官として疑り深いA、化学の先生として好奇心の強い田宮、そして新一の母親。母親役の余貴美子のコメント「子供に対する母の愛情が奇跡的にどこかに残っている感じをどう表現するか」を批判する声も聞いたが、監督の演出意図を汲んでのことだと今は考えられる。田宮が人間の子を宿して母親になる過程で母性に目覚める展開を含んでのものだろう。また、パラサイトは仲間同士の位置を把握できるという設定には矛盾が生じている。後藤との戦いでミギーを失うも、右腕にわずかに残ったミギーの細胞に気付き後藤に居所が知られてしまうと焦るシーンがあるが、その前に田宮が三人のパラサイトに追われるシーンでは、追い詰められたと見せかけて三体に分離し背後から機会をうかがっていた分身が三人の心臓を一気に貫いてしまう。いや、仲間の細胞に気付く能力はどうしたんだよ……という突っ込みは野暮だろうか。原作がそれを踏まえた上で三人を殺した点を考えると、映画が考えなしにストーリーを築いたような気がしてならない)。
で、演出という点で何も考えていない・無策この上ないのが、物語の始まりと終わりである。
原作ラスト、ビル屋上での浦上との対話→里美を抱える新一→ロングショットで小さくなっていく二人、ビル、街そして地球。空から始まるから原作の冒頭と韻を踏むように完結した。所謂、風呂敷をきれいに畳んだわけである。
だが、寄生生物は海からやってきた、という原作との変更点があるために映画の冒頭は海から始まる。当然、原作のラストと同じシーンであっては演出の韻を踏むことは難しい。だが、映画は原作と同じく浦上との対話をビルの屋上に設定する。実に、新一と浦上の初対面がここという展開に呆れつつも、原作に近い感じでありながら浦上のナイフを弾き飛ばして、こちらが「あれ?」となって、なんやかんやで原作と同じような演出でロングショットとなり地球まではいかないけれども、エンドクレジットを迎える。
何故か屋上から忽然と姿を消す浦上。いやその前に……ナイフ刺さらなきゃ駄目だろ……「あれ?」は人間としての新一であって、簡単にナイフ弾いたんじゃ、ミギーと共生していた頃と何も変わってないじゃん……と思うのだが、これも個人の主観なのか。
そして、エンドクレジットの映像は、水中を泳いでいると思しきミギーなのである。戻った。ラストシーンとなんの脈絡もなく海に戻った。空から来たってやってれば、地球→宇宙空間→暗転→エンドクレジットときれいに繋がっただろうに……
パラサイトに原作と異なる独自の設定を盛り込みつつ、その設定が原作の良さとどれほど相性がいいのか深慮しないがために、原作のおいしいところを全体のストーリーを見据えずにそのまま映像化した映画。愚考である。
マンガ原作映画としての正しい姿は、キャラクターだけ借りてきた映画オリジナルストーリーなのかもしれないと最近真面目に思いはじめている。