映画「転校生 さよならあなた」感想

映画「転校生 さよならあなた」感想
 この感想文には、重大なネタバレが含まれるんで、まだ映画を観てない方・観るつもりの方は、早々にお引取りを。いや、まあとりあえず率直な感想は「面白かった」の一言。それでは、
監督:大林宣彦  脚本:剣持亘 大林宣彦他  原作:山中恒
音楽:山下康介 學草太郎  撮影監督:加藤雄大  美術:竹内公一
照明:西表灯光  録音:内田誠  製作:角川映画
主題歌:「さよならの歌」 寺尾紗穂
主演:蓮佛美沙子 森田直幸/厚木拓郎 寺島咲/清水美砂 石田ひかり 古手川祐子 田口トモロヲ 窪塚俊介 斉藤健一 山田辰夫 入江若葉 宍戸錠 犬塚弘 長門裕之
 まあ地元ロケっつうことで、一度撮影現場にも遭遇しており、かなり期待値は高かった。ていうかこれでつまんなかったら大林憎しって感じだろ。ただでさえ監督の長話しは鬱陶しいのに(映画の出来とは関係ないか)。主人公の一夫の家が映画を鑑賞した劇場から近いと言うこともあって、観てる間中、本編の面白さとは別のところでむずがゆい感じがしたのもある。だって、権堂通りから外れたあの細い道々一帯って、行ったことないけど(以下自粛。いや、多分普通の飲み屋街だと思うが)。
 さて、映画は冒頭からトップスピードで早口に短いカット重ねて矢継ぎ早に物語が展開していく。速すぎ! 速すぎだよ、これ。あとでパンフで知ったけど、編集は監督自身なんだね。いつだったか、編集は監督がやらないほうがいいとか言ってたけど、というのも、監督がやると、ワンカットワンカットに撮影時の思い入れがあるものだから、どうしてもカットを切ることに躊躇しやすいんだと。でも、そういうのとは無縁の編集屋なら、映画を客観的に編集してくれる、とかいう話。だから、監督がそれやっていると言うことは、かなりこの映画に入れ込んでいるってことなんである。で、この超スピード展開、もう笑っちゃうくらい速い。尾道から長野に転校する電車中の一夫(森田直幸)と母(清水美砂)の会話から始まるけど、間もなんもないくらいのテンポ。しかも画面が傾いてる。この傾きは最後まで続く。正面に捉えた人物の絵がいつもどちらかに傾いているから、たまに傾かないと、そんだけでとても印象に残りやすい。また、これは男女逆転ファンタジーという現実的ではない物語であって、私は、劇中の一夫と一美の挙動に笑いつつも「スクリーン」を意識させられることで、これはファンタジーなんだという確認を常に行えた。つまり、とんでも展開が待ち受けていようとも、山中に突然変態(医者の息子。演じるは斉藤健一ことヒロシ。なんか変な声で演じてる)が現れようと、受け入れられる心構えが最初から出来ていた。しかもしつこく書くけど高速展開、車中の母子の会話で両親の離婚で長野に来た理由が明かされ、尾道の彼女・アケミ(寺島咲)とも別れ、転校先の学校で幼馴染の一美と再会し、一美には弘(厚木拓郎)というクラス委員長の哲学かぶれな彼氏がいて、一夫と一美は「さびしらの泉(パンフでは水場になってる。どっちだっけ)」で男女入れ替わって……。速いのなんの。カット切る躊躇なんて感じない。
 まあしかし、注目は一美を演じた蓮佛美沙子である。下着姿で右往左往し、そのまんま上着羽織っただけで外飛び出すは、無茶させてんな……。「バッテリー」では全然印象に残ってない彼女だけど、役柄と撮り方でこうも変わるんだね。「前作」と比較するのは酷かもしれないけど、後半のありえなさ(ラストシーンも含めて)を考えると、彼女の表情に漂うちょっとした古さと切なさ(もちろん映画を観た影響が大きいけど)は欠かせないんだろう。小林聡美には切なさをあんま感じなかったし、女に戻った時の彼女の演技には非常に違和を覚えたものだが、蓮佛が女に戻った時の演技には、同種の違和を全く感じなかった。所詮は私の感想だけど。
 お互いとりあえず現状を受け止めるしかないと一美は一夫の家に、一夫は一美の家(そば屋)に帰るわけだが、ここらからカット割りの早さもやや落ち着いてくる。それでもだいぶ省略されてたりもするんだけど。前半と後半の色分けを見るに、前半は日常景色をポンポン描いて退屈さを速度で乗り切り、とんでも後半を丁寧に綴っている感じがしないでもない。笑う場面が多いのも圧倒的に前半である。でも、どっちも切り離されているわけではない。この映画の中心的な役割を担ってもいる「死」を、冒頭から観客を刷り込まんばかりに意識させるからである。男の身体になって「死にたい」と嘆き学校の屋上だかなんだかに駆け上がる一美、キルケゴールの「死にいたる病」を一美に薦める哲学っ子の弘。特に弘は、一美の様子のおかしさにすぐに気付き、メールで「君のためなら死ねる」などとキザなことまで宣してみせるほどだ。
 死への不安は、そのまんま登場人物が死んじゃうのではないかという不安に直結した。はじめは生理かと思われた一夫(念のために、身体は一美ね)の気分の悪さ、温泉で女子の裸を見まくって鼻血を流すのを見ても、具合が悪いからじゃないかという思いが先立つし、実際そういう意図で描かれていたと思う。中盤以降から押し寄せてくる死の匂いは、一方が死んだら、一方は違う身体のまま過ごしていくことになるのか? という不安さえかき起こすし、そうならないでほしいけど、でも死んで欲しくないみたいな、かなり劇中に没入していくことになる(たがら画面の傾きも気にならなくなっていったのかも。でも時々我に返って、これはファンタジーだと観客に戻れるのも傾きゆえかな)。
 一美の身体は病に蝕まれていた。劇中では「現代の医学では治療できない」程度の説明で、病名は不明。この辺もファンタジー色を強調しているのかな。一美の兄(窪塚俊介)は妻を事故で失っていて、それも後半、死を受け入れる一夫の思いにつながっていく。詳しい内容は忘れちゃったけど、妻が生きていたことには意味があった、とか言うようなセリフで兄は一夫(兄にとっては一美)の覚悟を悟った。入れ替わったがために、ひとりの死が二人の死であるかのような錯誤が生じているのである。象徴しているのは、赤の他人である一夫の母を無理言って一美の見舞いをさせる場面である。冬休みで尾道から長野にやって来たアケミも病室に同席していた(弘とアケミは後半、二人が入れ替わっていることをすでに知っている)。自分の息子の死を他人の子どもの死として見舞う母。自分の母なのに他人の母として接しなければならない一夫……
 この錯誤が、実は二人にとって真実であることが明かされていく。「さよならオレ、さよならあなた」という一節とか、一心同体と言った意味のセリフもあった気がする。死をことさら悲劇として描かず、別れとして描く姿勢が貫かれているのも、病名が曖昧によるところが大きいだろう。具体的にすれば、現実味を演出する必要があるし、ファンタジー色も薄れてしまう。
 一美と一夫は互いに彼氏彼女がいながら心を直接通わせていくことで惹かれあう。そんな二人をそっと見守る弘とアケミ。一時的に回復した一美と病院を抜け出した一夫は、旅芸人の一座と出会い、ひと宿借りる。お互いの身体にさよならを言う二人。しかし、一夫が劇中で死ぬ実感がない……描かれていないということではなく、私がそう感じているだけの話だが。つまり、私は映画のラスト近辺になりながら、なおも奇跡を信じて二人とも助かるんじゃないかと思っていたんである。病気が治るとか、身体が元に戻れば病気も消えるとか、そんなとんでもまで期待していた。もちろんそんなことは起きない。死ぬんである。否応なく死ぬ。あっさり過ぎるくらい省略された死が描かれる。そもそも死を看取る場面さえない。さよならを言い合い、覚悟を決めた。そして、最後にもう一度さびしらの泉に行き、お約束として身体は元に戻るけれど、変わりに・ではなく本来死ぬはずだった一美が本来死ぬわけである。
 ラストシーンは、いやこれは公開間もないから書くべきではないかもしれないけど、書いちゃえ。
 「前作」は、一美がスキップしていく後姿だった。段々小さくなっていく一美の姿は、大好きな一夫と別れても悲しまない強さというか少女の成長があった。けれども死んでいる一美にとっては、いかなる成長も望めない。かわりに成長した一夫の決意が描かれるけど、映画は、「前作」同様に一美を中心に据えて終わる。主題歌「さよならの歌」を歌いながら、正面を向いた彼女のバストアップは、ひたすら物悲しい。
 そば食って帰った。泣いた。