ヱヴァになりたかった「踊る大捜査線3」と自壊する君塚脚本

ヱヴァになりたかった「踊る大捜査線3」と自壊する君塚脚本
 映画「踊る大捜査線3」を観てから数週間が過ぎた。あれからネットでさまざまな感想・批評を読み、鑑賞後に感じた「つまらない」という素朴な思いが形になりつつある。今回はそれを書いてみる。
 自分の立場を言えば、「踊る」シリーズはリアルタイムで見てきた。もともと「お金がない」で織田裕二出演作は面白い印象を抱き、その延長で続けて「踊る」を見た経緯がある。最初にありそうだった青島と雪乃の微妙な関係から、コメディ描写を挟みつつ、次第に警察物として様式を確立していくにつれて一緒の捜査を通してなんかいい感じになっていく青島と恩田の関係が気になり続けたのもあるが、一方で、各キャラクターが立ってくる後半の展開に目が離せなくなっていった。個人的に好きだったのが魚住係長で、演じる佐戸井けん太が当初端役扱いだったのがエンドクレジットで他の共演者(ユースケ・サンタマリアとか)と並べられているのが嬉しかった。最終話で、警察は死と隣り合わせの仕事であると認識させられるシーンは、視聴者だった私自身をもはっとさせたセリフであった。署長たちの三人の掛け合いや随所に挟まれる小ネタで紛れがちだったシリアスな面が警察物には常に潜んでいることを知らしめた。そして、一人の刑事が捜査から立ち回り・逮捕までと大活躍するそれまでの警察物と一線を画すという、すでに喧伝された文句ではあるが、改めて「踊る」シリーズの群像劇としての面白さを思い出す。本庁と所轄の対立という縦の軸と仲間との絆という横の軸のバランスが、私には素晴らしく思えたものである。
 ここからパトレイバー的群像劇としての魅力を語ることも出来るかもしれないが(「逮捕しちゃうぞ」は未見)、それ以外に影響を受けているという新世紀エヴァンゲリオン(旧エヴァ)との関連が私には語りやすい。劇伴で旧エヴァの曲を使用したことはググればすぐにわかることだろう(ちなみに本広監督は「サマー・タイムマシン・ブルース(STB)」でガンダムの劇伴を使用している。これが縁で「少林少女」に富野監督が写真だけ出演したという経緯があるようだ)。
 さて、「踊る3」は前述どおりつまらなかった。キャラクターについては好き嫌いがあるが、全体的な映画としての個人的な面白さは、あまり見出せなかった。もちろん事件の流れの杜撰さ、設定の甘さ、いわゆる突込みどころは、すでにいくつものブログ等で指摘されているとおりなので、ここでは触れないけれども、鑑賞後の徒労感は、そのまま脚本と監督への不信に繋がった。
 本広監督はもとは好きな監督だった。「踊る1」「サトラレ」「STB」と、ちょっと悪ふざけが過ぎる面もあるけれど、娯楽作品としてとても楽しめたのだ。「踊る2」で、あれ?なんか変じゃね、と思うも、「STB」で持ち直して、やっぱり面白いよ、と思ったものである。だが、「少林少女」でその感情は破壊させられた。駄目かもしんない、この監督……でも、「踊る」だけはきっと……
 刑事ドラマでありがちなシーンを虚仮にするような演出が典型例、いわゆるスカシ(あるいはハズシ)ネタというものがあるわけだが、刑事物のバロディを引いてみると、第1話冒頭の取調べシーンがあまりにも象徴的だ。ホシ(「踊る」シリーズは刑事ドラマでよく用いられる隠語も、ほとんど使用されていないわけだが)に対して、サッシから漏れる逆光の中「吐いちまえ」と自白を迫る青島が、故郷の母親を思い出させようとしたり・カツ丼注文しようとしたり。すぐにそれは面接のテストだとネタばらしされるわけだが、この時署長は「今、西暦何年なのよ」と副署長に訊ねる。刑事ドラマは、いい加減古過ぎるんだよ!という薄ら笑いがほの見える小ネタである。第8話では真剣に仕事に打ち込む刑事課の面々が登場するも、それは職場見学に来ていた子どもの前でいいところを見せようと張り切っていただけ、だったりと。こうした演出は、「踊る」のお約束として定着していくことになり、「踊る1」では張り込みの緊迫シーンと思わせて、本店の副総監のお迎えというネタを披露する。
 一方で、今回テレビシリーズを見直して気付いた事があった。アクションシーンの多くが肩透かしで終わる、というものだ。第10話の冒頭がとてもわかりやすい。結婚式場で犯人を追う青島と和久さんと真下。同じ会場の近くでは、署長の仲介で恩田がキャリアの将来出世間違いなしの男とお見合いの最中である。恩田は見合い相手と共にゆっくりと歩きながら散策していた。そこに先ほどの犯人が現れる。恩田の思わぬ登場にびっくりする青島たちだが、真下の「そいつ捕まえてください」の声に反応、向かってくる犯人に対して正面から挑む恩田。青島のアップ――場面は湾岸署内の刑事課に一転する。見合いが失敗したと泣き崩れる恩田に、回し蹴りしたんですかと魚住係長たちが声を掛けた。
 このシーンを紹介すれば、「踊る3」で同様のシーンがあったなぁと気付かれるだろうが、ここの問題点は、それが外されたから期待はずれだから、ということではない。この時、恩田は着物を着ていたのである。そりゃ着物で回し蹴りができりゃたいしたもんだが、どんな格好でどうすれば決まるんだよという不可解さが残る。ネタにマジレスかっこわるい、かもしれない。けれども、何の伏線もなく唐突にこのシーンが挟まれると、恩田刑事ってそんな強かったっけ????とわけがわからないのだよ、私は。
 恩田刑事はストーカーされた挙句、当の男・野口に襲われて傷害を負わされた過去があった。そして、第5話で出所した野口に再び襲われてしまう。伊集院光が演じた男は、彼の容貌をことさら醜く描き、ピンクサファイアという美少女アニメ好きという設定まで盛り込んでいるわけだが、まあそれはともかく、彼はとても俊敏な男には見えない。一方、回し蹴りを食らわした男は渡嘉敷勝男演じるボクサー風、唸る拳を恩田に向けていくのだ。
 「踊る3」で実行犯を確保するに一役買う青島の部下の一人である中国人の王(ワン)さん。中国人だからカンフーという発想の拙さは置いておくとして、カンフーの構え→場面一転して犯人を取り押さえる刑事たちとポーズを決める王さん、という演出がスクリーンに映された。
 では大立ち回りが出来たのか。「踊る」テレビシリーズは、基本的に本広克行澤田鎌作の二人が演出している。前述のシーンは澤田演出回である。第9話では本広演出による犯人との格闘シーンがある。刑事課で保護されていた事件関係者の女性を付けねらっていた男がマスコミの取材に紛れて署内に侵入し、応接室から出てきた女性と対面、ナイフを手にして襲い掛かる。男を取り押さえようと青島が飛び掛かり、もみ合いになる。青島は胸を刺され、緊張が走る……ここからスローモーションが始まり、重厚かつ単調なBGM、鳴り響き続ける電話のベル、飛び交う怒号・悲鳴、そして男の確保に至る。青島は胸ポケットに納めていたお守りで軽傷で済むんだけど。あるいは第7話、同じく本広演出回、麻薬密売人の男を追う青島と和久さんは、ホテルに隠れていた男の居所を掴み、篭っていた部屋に突入し飛び掛らんとする。ここで暗転、和久さんの「あおしまー!!」と共に署内のシーンに一転した。戻ってこない青島たちをまだかと焦る恩田たち。そこに、激しい格闘をしたと思しき乱れた立ち居・顔の傷の青島と和久さんが密売人の男を引っ張って刑事課に入ってきたのだ。「ブラックレイン」の真似事らしいシーンである。または第11話、真下を撃った逃亡中の男と、その男を追って訊き込み中だった青島・恩田が遭遇、男は銃を構えて至近距離から発砲、青島たちは間一髪床に伏せてかわしたが、ここはスローモーションである。はたまた歳末スペシャル、刑事課を猟銃で占拠したヤク中の男を捕らえようとするシーン。隙を見て男から銃を奪おうと人質にされていた青島たちが立ち上がった。もちろんスローモーションで。BGMは第九だ。
 本広演出は基本的にコメディ風日常対話シーンとスローモーションにBGMを響かせたアクションシーンが繰り返されていたことが、テレビシリーズからうかがえたし、「踊る3」は、まるでCMが挟まれるのを計算したかのように、この緩急を続けている。
 まあそれは置いておこう。問題は、これらが過去のアニメや映画作品を模倣しているという点である。別にパクりだとわあわあ騒ぎ立てるわけではないし、それはきっと、オマージュと呼ばれるものの類、だろう。名作のおいしいところをつまんで詰め込んでいった画面に本広監督の演出リズム(悪ふざけ的なハズシネタ)を味付けしたわけである。
 では「踊る3」では何が起きていたのか。この作品からも名作からの引用が映画に詳しい方々なら発見できるに違いないけど、一番に目立ったのが、「踊る」シリーズ全体からの引用だったのである。青島が関わったキャラクターたちの再登場、なにより第一話でゲームセンターで青島にとっつかまった少年が成人して登場というのがもっとも衝撃的だろう。これまでたくさん描かれた小ネタを懐かしむかのようにこれでもかと詰め込まれている。コアなファンなら「踊る3」は何度観ても楽しめる作りになっているのかもしれない。
 つまり、「踊る3」は旧エヴァを再構成して新たな物語を築こうとしている「ヱヴァンゲリオン(新ヱヴァ)」を目指していたのである!!!(なんてな)
 過去の物語の再構築と過去からの決別。これが「踊る3」の狙いだ。新湾岸署への引越し〜旧湾岸署の爆破という流れがわかりやすいだろう。これ以上は何も言うまい。
 だが、もうひとつ忘れてはならない要素がある。ここでようやく脚本の君塚良一のご登場である。
 君塚脚本のネット嫌いは「誰も守ってくれない」で、携帯ゲーム嫌いは「容疑者 室井慎二」で、それぞれ描かれていたが、テレビシリーズからすでに脚本のネット・パソコン嫌いは偏見に満ちた形で現れていた。
 先に触れた第5話で登場した恩田のストーカー男・野口の立ち居振る舞いや表情の捉え方、彼の部屋の中に置かれていたものは、「アニメとかなんだかわかんない物」を印象だけで厭う人々が思い描くだろうもので溢れていた。積み上げられたビデオテープ、壁に貼られた美少女アニメキャラのポスター。家宅捜索する青島と和久さんの様子は全体的にホラー調とうすぐらーいBGMで彩られていた。問題は、この後の場面で署長にストーカーについて青島が説明するシーンがコメディ風に描かれていた点である。ストーカーという言葉を知らない署長は説明を受け、青島を詰問する調子で「それは単なるバカだろ」と突っ込む、「おかしいじゃないの」。
 第8話では、プロファイリングチームの三人が登場し事件の犯人像を分析する。彼らは敬語を知らず「〜だよね」「じゃあさぁ」という口調で捜査会議で発言した。容貌は、金髪であり、やたらと写真を撮り、自信満々でもある。後に「踊る1」で描かれた捜査方法を巡る本庁と所轄の対立であり、新しい捜査方法と古い捜査方法の対立にも繋がっている。和久さんは古さの象徴的キャラクターであり、青島は新旧の狭間でもがくことになる。
 第9話は、後に「誰も守ってくれない」にも連なる、加害者の関係者である女性をマスコミから警護する話だ。マスコミから執拗に追われて危害が及ぶ恐れがあると判断した本店が湾岸署に命じ、彼女は青島と恩田によって署内で囲われることになった。移送中にマスコムの車両から追われるシーンがあり、この時は安全運転と追跡から逃れようとはしなかった。「誰も〜」では、これがカーチェイスとして描写されるわけだが。
 けれどもネットの悪い面ばかりを描いていたわけではない。放送当時の1997年は、まだ2ちゃんねるも出来ていない時期のせいか、「掲示板の書き込み」という表現には、善意があった。第11話、捜査の裏話を売りにしている真下のホームページ(彼のなんでも話してしまう設定は「踊る3」で某交渉ドラマの監修をしたというネタでも生きている)の掲示板に、撃たれた彼を心配する名も無き人々の書き込みがたくさんあると紹介されるのだ。
 もともと、普通の人々とはちょっと違う異質な人々の犯行動機やその設定と言えば、薬物中毒患者だったり、同情を禁じえない怨恨だったり、大金目的の営利だったり、何かしらの明確な理由が用意されていた。けれども、「踊る」シリーズは、そうした刑事物のよくある犯人描写からも抜け出そうとした。不法侵入したビルで偶然居合わせてしまった会社役員を絞殺してしまうという第1話の犯人の男がすでにそうで、「踊る」シリーズの犯行動機は、はっきりしない、なんとなくであったり暇つぶし・ゲーム感覚であったり、そもそも不明であったりしていたのである。人情ドラマではなく、警察ドラマを描くために起きた現象だろう。
 「踊る」シリーズの面白さは、相反しあう価値観の持ち主である本広克行君塚良一が組んだ点にある。アニメ好きでツイッターもやり、ネットにはそれなりに理解がある(と思われる)本広監督は、黒沢映画からの露骨な引用も辞さず(「生きる」がテーマの一つだからって、署内になぜか貼ってある映画「生きる」のポスターは白々しかった)、好きなアニメからもおいしい部分はどんどん食べていく。かつて惚れ込んだ旧エヴァは、新ヱヴァとなって甦ると、彼がこれを黙って見過ごすわけがないだろう。
 けれども、そこに映画まで監督するようになった君塚良一(それと、キャストの一人でありながら映画作りに容喙してやまない織田裕二がいるけど、よく知らないので触れない)が俺の考えるリアルとは何かを物語の中にぶち込んでいく。
 今回の制作にあたって、おそらく過去シリーズは丹念に観たに違いないはずだ。だからこその再構築であり、旧シリーズからの脱却が図られたのだし、新しい「踊る」シリーズの幕開けとして、旧作の展開を踏まえたストーリー作りがスクリーンから現に垣間見られた。ところが、彼が観ていたものは群像劇としての「踊る」ではなかったのだろう。パトレイバー的なるものは、本広監督は知らないが君塚脚本の中からは一掃されたのである。彼が観たものは、当時の社会の有様だった。
 「容疑者 室井慎二」の冒頭で殺人の容疑をかけられ交番で取調べ中の警官が逃亡するシーンがある。新宿の町並みの一部をセットで再現するという潤沢な撮影費の使い方をしているのは作り手から観ればうらやましい限りだろうが、まあそれはともかく、車が行き交う道路の真ん中を突っ走る警官と、それを追う沿道の警察たちに混じってスクリーンに映されるのが、その様子を携帯で写真を撮っている人々なのである。「誰も〜」では、もっと露骨に、こうした大衆への蔑視・特にネットをしている人々の異常性は随所に描写されていた。君塚脚本の致命的欠陥は、彼本人が脚本に盛り込んでいると思っている今の世相が、彼の目を通した偏ったものであるという自覚が全く見られない点なのだ。「誰も〜」を観たネット好きの人ならば、このシーンに誰もがあきれ果てたはずである。
 マスコミからいつの間にかネット住人にすり返られた容疑者の妹を追う人々の異常性は、彼女が某ホテルで待機中にその姿が盗撮される事態にまでエスカレートした。刑事は速やかに彼女を保護し、盗撮しているカメラ等を発見する。そこに、カメラを仕掛けた三人組が現れる。彼らは手にしたノートパソコン等で刑事を殴打し、カメラを奪い返して去っていった。その出で立ちは、いわゆる電車男が放映された当時、ドラマの中で盛んに誇張された姿として描写された、秋葉系の格好をした若者たちだったのである。
 いろいろな突込みが可能だ。パソコンをそんなふうに扱うことはないよ、とか、そもそもそんな簡単に盗撮できるかいな……ネット好きな人はなんでいつもそんな格好なの?……
 君塚脚本の異常性は「踊る」シリーズでも脈々と続いている。前述した第5話に登場したストーカーでオタクの野口である。彼は第5話で広域婦女暴行犯として逮捕されるわけだが、当然数年後に出所する。その後の描写は詳しくなされないが、君塚が「容疑者 室井慎二」のスピンオフドラマとして再び描くことになる「弁護士 灰島秀樹」というテレビドラマでは、携帯ゲームに夢中で、記号的な嫌な奴として描写された灰島を主人公にする。彼が女性に恋心を抱いてなんだかいい人になっていく展開はまあ置いといて、出所した野口が強盗殺人を犯していたことが仄めかされるのである。しかも、場所は秋葉原で!!
 秋葉原通り魔事件が起きるのは、その放送から2年後だった。
 この事件が、物語に世相を積極的に取り込もうとする君塚脚本に注目されたのは間違いなく、「踊る3」では、派遣社員、漫画喫茶、という形で悪意を持って描写されることになった。そして、野口はどうなっていただろうか。彼は、精神に異常を来たし、変わり果てた姿・それは本広演出のためか、殊更気持ち悪さを強調するおちゃらけた変態として、1カットのみ登場するのである。オタクはいずれ犯罪を犯して気が狂うと言いたいのか、と考えるのは少し意地が悪いかもしれないが。
 第8話で皮肉ったはずの・「踊る1」で捜査の役には立たないと否定したはずの犯罪者プロファイリングという科学捜査を、君塚は今時の犯罪を分析することで実践し、異常な犯罪を犯す典型的な服装や性格をプロファイリングした。それがゲーム感覚で事件を起こす少年たちであり、中心メンバーのいないリストラ社員たちであり、レクター博士もどきを崇める派遣社員たちなのである。脚本には・スクリーンには、今もその歪められた分析結果が刻印され続けている。君塚がこの矛盾に気付くことはあるだろうか。