映画「川の底からこんにちは」感想

映画「川の底からこんにちは」感想 どーせたいした人間じゃないし頑張るしかねーじゃん
監督・脚本:石井裕也
プロデューサー:天野真弓
撮影:沖村志宏  照明:鳥越正夫  録音:加藤大和  美術:尾関龍生
音楽:今村佐悶 野村知秋  編集:高橋幸一
主演:満島ひかる 遠藤雅 相原綺羅 志賀廣太郎 岩松了 並樹史郎 稲川実代子 鈴木なつみ 菅間勇 猪股俊明 牧野エミ 工藤時子 目黒真希 廣瀬友美 山内ナヲ 丸岡明恵

 傑作だと思った。褒めすぎだろっ言われても、だって面白かったんだからしょうがないじゃん。そう、しょうがないのだ、人生なんて。人生の応援歌だなんて惹句は飽き飽きだし、くだらない人生だけど、そんな人生でも良いじゃんか、みたいな映画をいくつか観てきた気がしている。平凡でもいい、平和に楽しく過ごせれば。現状を肯定してくれる、今のあなたのままでいいのよと甘く優しく囁いてくる映像や言葉を目にして耳にして、結局、私は安心していただけじゃないのか? なあ、本当にそんなんで良いのか?
 この映画の主人公・佐和子は、あっけらかんと言うのだ。しょうがないですよ、所詮私なんか中の下の女ですから。
 みんな自分のこと普通とか言うけど、実際はサバ読んでいるだけ。ホントのホントのところは、それより下のはずなんだよ。ほとんどの人が普通よりダメな連中ばかりだ。で、それでどうしようというのだ、現状に満足するのか。普通にも及ばないダメ人間が出来ることといったら、頑張るしかないじゃねーか。
 冒頭から「しょうがない」が口癖のように同僚とだらだら仕事をする彼女は、何をしても長続きしない様子が説明される。上京して5年、5つ目の会社、5人目の彼氏……いつもサバサバしていて、かわいらしい仕種もせず、缶ビールを豪快にあおり、なんの展望もない人生を、しょうがないですよ、と諦観していた。こういう彼女だから、なにやら一念発起して、しょうがない、という口癖がなくなっていくんだろうなと漠然と思っていた時期が私にもありました。
 しかし、この映画は違う! そんな甘っちょろい言葉を弄して観客に説教なんざせず、しょうがねーもんはしょうがねーんだよ! と開き直っていくのだ。この痛快なること!
 序盤は東京での彼女の生活が彼氏(バツイチ子持ち)とのデートや同僚との立ち話を通して、観客にとってこいつダメだな、みたいな印象を植え付けていく。というか、そもそも出て来る人物がみんなダメだこりゃ、みたいな人たちばかりで、おもちゃ会社に勤める彼女の上司の新商品に対するやる気のなさとか、実は彼氏が同僚の課長だったとか、同期とおぼしき女性たちとの立ち話の無為な時間の過ごし方とか、なんというか、きっと真面目なんだろうけど、それだけが取り柄で、希望も展望も見えない人生の残り時間をなんとなく過ごしている。それは、結局のところ観客とたいして変わらないんだけど、こちらにとっては上から目線で、佐和子のダメっぷりを非難しちゃうのである、そんなんじゃ、この先どうすんのよ、と。
 もちろん物語なので転機が訪れる。父が末期癌で入院するのだ。駆け落ちした経緯があって(その駆け落ち相手とも上京してすぐに振られている始末であり……)地元に戻りにくかったものの、仕事を辞めて佐和子と地元でやり直そうと勝手に決めてしまった彼氏の身勝手さに辟易しながら、彼女も仕事を辞めて帰郷するのだった。
 ここから人生の大逆転でも始まろうものなら、そりゃどんなお気楽娯楽映画だよって話になるし、それはそれで面白いんだろうけど、しょうがないしょうがないよと佐和子は父の経営する会社に、父の代わりとして、社長代理として従業員の前に顔を出すのである。会社の名は「木村水産」。地元で取れるシジミを加工販売する零細企業だった。やる気のないパートのおばさんたち、軒並み売り上げが落ちていくのも構わず張り切って社歌を歌う経理、そしてしょうがないと諦めている佐和子に、新天地で何かしようと考えるも何も出来ない彼氏……。
 どーすんだよ、これ。こんな連中が一発逆転大団円なんて出来んのかよ……劇中、いたるところに挟まれるユーモアに笑いつつも、観ているこっちが不安になっていく物語は、どんどん会社を危機的状況に陥らせていくのだ。だからと言って死にゆく父と娘の感動物語になるわけでもない(母は佐和子が幼い頃に死んでいた。ここ、大事なところね)。
 佐和子は東京にいた頃、クリニックに通って腸内洗浄を行っていた。ストレスが原因らしいけど、ストレスを感じている表情にはとても見えない。ここは満島ひかるの演技の素晴らしさよ。彼女はしょうがないと言いつつも、便秘に悩む、でも悩んでいる素振りを全く見せないわけで、彼女の「しょうがない」精神が、実はとてつもない爆発力を秘めている・否、溜め込んでいたのだ。クリニックの先生が言う「どん詰まりですね」は、もちろん腸内のことを指しているわけだが、彼女の人生を暗に言い含んでいることは言うまでもなく、しかし、その、なんというか、はっきり言うと、詰まったクソが、彼女の今後のしょうがない人生にとって、時には肥料になるかもしれないことをも含んでいたのである。
 朝、佐和子の日課は、家に溜まった糞尿を近くの小さな川岸で撒くことだった。別に何か作物が植えてあるわけではない。それが日課だから、ただそうしているだけだ。彼女のどん詰まりな日々は、このようにして捨てられていった。でも物語には多少の幻想が必要だ。厳しい現実だけ見せられたら辛いだけだよ。映画館を出たら日差しが現実のように肌を突き刺して来るんだから。というわけで、ある時、そこに一輪のきれいな黄色い花が咲いていることに彼女は気付いた。それを取ってビンに入れると、入院する父のもとへ見舞いに行った。
 父との会話は佐和子の素っ気無い態度もあって、なかなか盛り上がらない。父は自分が死んだ後のことはそれほど心配していない様子であるが、佐和子は、結局花をそのまま持って帰ってしまうのだった……
 彼氏の浮気、残された彼氏の子どもとのぎこちない日々、父の一時帰宅。物語は中盤からどんどんといろんな要素を詰め込んでいく(クソみたいに、とか言わない)。
 そして、佐和子は決意するのだ。しょうがないものはしょうがない、中の下の自分が出来ることといったら何だろう、経営を劇的に改善する秘策も才覚もあるわけでもない。彼氏との仲だって、子どものことだって、一気に快方に向かう精神力も持ち合わせていない。だったらもう、がんばるしかねーじゃん! 駄目なやつが出来ることって、結局、それしかないのだ!
「上がるー上がるーよ、消費税 金持ちーのともだちーひーとりーりもーいーなーい 来るなら来てみろ大不況 そのときゃ政府を倒すまで 倒せ 倒せ せーいふ シジミのパック詰めーシジミのパック詰めー川の底からーこーんにーちーはー」
 佐和子は、これまで経理しか歌わなかった社歌を自作の詩に差し替える。従業員と共に作った新しい社歌を全員で歌いきるその姿は圧巻である。これで物語は完全に吹っ切れたわけだ。後は佐和子が頑張るしかないを実践していく。彼氏との結婚を決意し、子どもも育てることを決め、会社もみんなでがんばろう。だってそれしか出来ないんだもん。
 自分が出来ることを精一杯やっているだけなのに、佐和子がとてつもなくかっこよく見えるのだ。なんでだろう。私自身頑張って生きていないからかもしれない。しょうがないと言いつつ、どこかで大逆転を望んでいるのかもしれない。言われなくてもわかっているんだよ、心の底では、俺はつまらない人間だと……いや川の底か、シジミ漁に引っ掛けた川の底は、もちろん人生の底でもある。ただ、そこから這い上がるイメージは全然ない。ぷかぷかと浮かんできて、ちょっと水面に顔を出して、「こんにちは」とおちょくっているかのような気楽さなのだ。うんでも、佐和子はすごい頑張っている。頑張って頑張って、それでも必死な形相はしないのである。しょうがないという諦観が、彼女の内なるエネルギーをクソに還元していたのかもしれない。やがて糞尿が撒かれていた川岸には、巨大がスイカがなっていた(クソの中にスイカの種でもあったんだろう)。
 彼女の「しょうがない」精神の礎は、母の死だった。どうあがいたって母の死は覆らない。父の死に際して、観客にそれが提示される。父の死も同様だ。頑張っても死んでしまうのだ。笑い泣きのラストシーンは傑作である。ていうか、この映画自体が感動的で素晴らしい。余韻の晴れやかな気持ちは、「こんにちは」と言うに相応しい心かもしれない。