アニメ「惡の華」が教えてくれた、実写とアニメの境界線

アニメ「惡の華」が教えてくれた、実写とアニメの境界線
 アニメ「惡の華」が面白い。押見修造が別冊マガジンで連載しているマンガをアニメ「蟲師」の長濱博史が監督したこのテレビアニメにすっかり魅了されている。原作未読のまま視聴を続けているので、このあとどうなるんだろうかと言う楽しみを毎週楽しんでいる。
 さてしかし、このアニメがそのストーリーの面白さとは別の視点で話題になっていた。実写で役者に演じ撮影した映像をトレースした、いわゆるロトスコープによる作画である。賛否あったこの手法も今ではストーリーの面白さが優先して話題になっている感を抱いているけれども、当初、多くの人々がこのアニメの作画に関して意見を述べ合っていた。だが、ほとんど私に引っかかる意見がなかった。もっとも、私はロトスコープについて薀蓄を語れるような知識も教養も持ち合わせてはいないし、原作を読んでいないので、違和感も抱かなかった、そういうものだという感覚でアニメを視聴できたのは幸運なのかもしれない。それでも、多くの意見に、何を言ってるか意味がわからない感を持ったのである。
「『惡の華』のロトスコープが与える効果は何か http://togetter.com/li/487579
 素直に気持ち悪いとかどうとかいう個人的な好悪は別にいいとしても、これは何を言わんとしているのか理解できない程度の教養しか持ち合わせていない私である。けど、アニメ・マンガ・実写、「惡の華」というアニメは、この三角関係を考える上でとても素晴らしい道標になるというのに、自分の好悪の「好」の部分を理屈付けで批評していると感じてしまい、どうにもよくわからなかった。なんでアニメを見ているのに小説のたとえが通用してしまうのか、なかんずくそれに膝を打つ人々……。私がおかしいのかと自問したものだが、自分なりに感じた「惡の華」の面白さを言語化するためにネットをさまよってみた。まずは、原恵一監督の最近のインタビュー記事である。
「初実写監督作品「はじまりのみち」を撮り終えた原恵一監督にインタビュー http://gigazine.net/news/20130522-keiichi-hara-interview/
 原恵一監督は記事の中でも紹介されているとおり、映画「クレヨンしんちゃん」シリーズを経て、「河童とクゥの夏休み」「カラフル」とアニメ映画を発表してきたアニメ監督だ。脚本担当だった氏が監督もすることになり、しかしそこで直面する実写とアニメの違いをはっきりと断言しているのが面白い。
 「――:アニメと実写は「完全に別物」ということですか?
   原: 技術的なところでいうと、サイズやカット割りというものが、そもそもアニメと実写では違うんですよね。今の段階だと僕はまだ実写の名残が残ってるんで、その調子で絵コンテなんかをおおざっぱに描いてしまって、「いかんいかん、これはアニメだった、これじゃあダメだ」なんてことがあったりで、非常に毎日戸惑いながら絵コンテを描いています。」
 私は「カラフル」公開時、一部で実写でやれよ・アニメでやる意味があるのか、というような声をネットで見ていた。「カラフル」では、実際の現地を取材ロケしたと明らかにわかる背景が登場する。そして、淡々とした日常風景の積み重ねは、キャラクターの躍動感を欲望するアニメという媒体において致し方ない不満かもしれない。
「【アニメスタイル特報部】『カラフル』原恵一監督インタビュー 第1回 この原作なら自分に向いている、と思った http://www.style.fm/as/02_topics/tokuhou/tokuhou_007.shtml
 「原:(前略)劇中で、主人公の真と早乙女君が一緒に川を眺めるシーンがあるじゃないですか。あの辺のポイントも自転車で走ってる時に見つけて、印象に残ってた景色なんです。「ここからだと玉川が凄くカッコよく見えるなあ」って。
  ── 劇中で、一瞬「これ実写かな?」と思うようなシーンですよね。
  原:それ、よく言われるんですけどね。写真をもとにはしてるけど、ちゃんと手作業で描き起こしている背景なんです。まあ、いつも誰かがそこで景色を眺めていたりするような、有名なスポットというわけではないんだけど。個人的にお気に入りの場所だったんです。」
 「手作業で描き起こしている」。これ、とても大事な言葉である。
 さて、「カラフル」の原画に参加し、自身の初監督作品「川の光」では原恵一監督に演出補佐を仰いだのがアニメーターで演出家の平川哲生氏である。平川氏は、「作画の時間、演出の時間、絶望の時間 山下清悟・平川哲生の対談 http://bokuen.net/interviews/yahi.html」で、自分が実写の演出をやる可能性はゼロだと発言した上で、こう予言していた。
 「平川  原恵一さんは実写をやらないかと言われたら心が動くかも。細田守さんはたぶん興味ないと思う。実写とアニメは同じ「演出」という言葉でもつくり方がまったく別物だから、正直よくわからないし、僕の興味はやっぱりゼロです。(後略)」
 というわけで、この平川氏が助監督・作画統括を務めているのが「惡の華」である。
 平川氏は、自身のツイッターで「惡の華」の背景に関する記事を紹介していた。「ぱぶろのぶろぐ 惡の華 背景制作過程です! http://pablo.sblo.jp/article/67014897.html
 この記事では、写真を元に下絵から色塗りまでの詳細が公開されている。手描きなのだ。
 実写とアニメの違いがここでもうはっきりしてきただろう。手描き、これが重要であり、かつとてもシンプルな違いである。そして、いくら写真をなぞっていようが、いくら実写と見まがうような背景だったとしても、そこには人の手が加えられている・つまり、人の意思が介入しているということである。
 そして、この実写とアニメの違いについて、核心に近い発言をしたアニメーターがいた。CGアニメ監督の峯沢琢也氏だ。
「CGアニメ監督・峯沢琢也氏の『惡の華』を見てのロトスコープとCGキャプチャーについて http://togetter.com/li/485089
 曰く、「敢えて手書きで起こし直し人間の手が入った情報量を抜いた気持ち悪さ」。
 マンガにしろアニメにしろ、そこで描かれる情報は基本的に0から作られる。写真を基にしているとしても、画面に描き起こす作業が必要なのだから、どれだけ実写っぽかろうと、それはやはり情報量の操作が行われていた。ロトスコープは実写をトレースするという作業をしている、無限に近い情報量を有する実写映像の中から、ひとつの線を決定する。情報量を抜いた、とはそういうことだ。すなわち、0から100までを足し算で作る方法もあれば、無限と思われる量から100までを引き算で作る方法があるというわけだ。方々でロトスコープのほうが作業量が多くて大変という記事を読んだのだが、納得である。無限から100まで引き算で作るなんて、そりゃもう大変な時間を要するのは自明なのだがら、0から100まで足し算したほうが圧倒的に速い(もちろん、100という数字は喩えに過ぎないわけだが、これが1000になろうが10万になろうが、無限から引いていく途方もなさに比べれば、足し算の方がはるかにわかりやすい。これがCGになったところで、やはり線を引く計算は必要である。人の手か機械の手かによる違いは大きなものだろうか? 違いなんてなんとなくないと思う)。
 容易いようで実はとてつもない決断の上で引かれていた一本の線に思いを馳せてみるのも、たまにはいいかもしれない。アニメ「惡の華」は、実写に比べて情報量が極端に少ない線でキャラクターが描かれている。それはまさしく、アニメと実写の境界線なのだ。