貞本義行「新世紀エヴァンゲリオン」長文レビュー「水の中の綾波」(2008年2月)

※貞本版エヴァが14巻で完結したのを勝手に記念し、2008年2月に同人誌のために書き下ろした長文感想を公開する。ラストでシンジが伸ばした手が何を握ったのか? 今となっては言うまでもないが、貞本版エヴァは、そこに至る道程を丁寧に根気強く描いた作品であり、当時もその点について言及した。

貞本義行新世紀エヴァンゲリオン」長文レビュー
「水の中の綾波

目次
 序 はじめに
 破 アニメと比較することで見えてくるもの
 急 綾波の記憶

序 はじめに
「理想は全コマ背景があって、フキダシがないもの。」(1999年「季刊コミッカーズ秋号」掲載より)とかつて語ったことのある貞本義行が描く「新世紀エヴァンゲリオン」は、多くの読者が作品のあらすじを知っている中で展開される物語という観点からして歴史物と捉えることが出来る。自然と読者の視点もアニメと比較することによって成り立っているきらいがある。正直言うと、私がアニメを見たのは単行本がすでに4巻まで出たところだった。つまり展開はほとんど知らない状態で読んでいたのである。アニメの影響は大きく、現在ではキャラクターの台詞に声優の声を当てながら読んでしまうが、4巻まではそれもなく漫画を漫画として読んでいた。
 アニメを知らなかったころの私にとってもっとも印象深い場面は、各話の扉絵である。特に第16話は強烈だった。「捨てられた記憶」と題された扉の中央で小雨の中しゃがみこんでぼろい傘を差した幼少のシンジがいる場所が不法投棄されただろうゴミの山なのである。そして手前に描かれた自転車がその回を物語る上で欠かせない道具となる。扉絵が作品の象徴となっているのである。
 3巻第16話表紙

 場所は川岸である、遠くに橋があり土手が見え、その向こうにマンションらしい建物がちらほらとある。雨の量にしては異常に厚そうな雲が覆いかぶさり、じめじめした感じと同時に閉塞感を生む。その根本は広々とした場所にもかかわらず縮こまって座る少年の姿である。川べりは風景にとって境界線として描かれやすい。川の向こう側とこちら側で世界の違いを端的に示せることが出来るし、画面を横切る川が景色に起伏をもたらし、世界を際立たせる。少年は当の境界線からどちらの世界も見渡せる位置にいながらじっと正面を見つめているだけである。だがこの暗い描写によって景色ではなく少年の存在が心象風景として際立ってくるのである。
 自転車について語るならば、ミサトのマンション(2巻147頁より マンション内の自転車(画面中央))にはどういうわけかいつも自転車が描かれている。扉の近くに置いてあるだけらしいそれが、使いもせずに何故そこにあるのか。まるでその時のシンジがゴミの山から拾ってきた自転車のように、それはただ景色の一部として描かれ続ける。
 漫画において個性といえば、人物の造形でありストーリーのもっていき方が取り上げられやすいが、背景だけを取り上げて、これは誰が描いた?と問われても難しい。物語の構成要素において背景描写は両方にまたがる重要な要素だと考える。雰囲気とか空気感とか、読者の主観によるところが大きい感覚をいかに作者の思う方向にもっていくか。さらに魅力あるストーリーを際立たせる背景。アニメと比較することで、貞本版エヴァンゲリオンは、とても魅力的な風景を読者に見せてくれるだろう。(以下の文章では、原作に当たるTVアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」を「アニメ」と、そのマンガ版を「貞本版」と表記する。アニメの話数は、アニメに準拠して第壱話〜第弐拾五話・最終話、第弐拾五話の劇場公開版を第二五話、最終話の劇場公開版を第二六話と表記する)。
 なお、本稿は「ひとりで勝手にマンガ夜話http://www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa/)」で「新世紀エヴァンゲリオン」ついて書いた文章を大幅に加筆修正したものである。)


破 アニメと比較することで見えてくるもの
1 2巻131〜138頁 シンジは家出をするもすぐに連れ戻され、ミサトと対面する場面
 図1
 アニメではほぼ同一のカットで動きに乏しく、ミサトの厳しい口調がシンジに突きつけられる演出がなされている(図1)。動きを抑えたのは製作の都合上などの作品外の理由があるのだろうが、結果的に、ミサトの声・シンジの声に意識が向けられやすくなり、事態の深刻さを煽っている。薄暗い中でうつむいたシンジと、光を背後に表情が見えないミサトが、それらを強調した。
 マンガは動きのある演出が施されている。まずシンジのモノローグによって読者をシンジ視点に吸い寄せる。監視カメラによって彼が置かれている立場も想像できるだろうし、視点がまさに彼自身に向けられてもいる。読者はシンジに感情移入すると同時に、彼をカメラから観察する視点を得た。
 2巻131頁
 ミサトが室内に入ると、以後、やや鋭い表情を彼女はほとんど変えない。というよりも、違う表情を抑えた描写が行われる。それだけに彼女のわずかな変化は読者を捉えるだろう。またシンジ視点の描写も増える。彼が抱える不安が、今現在見ているものとしてコマの中に活写される。アニメとは違い、実に多弁な絵である。「おかえり」でミサトの正面、シンジが彼女を見た、ということである。シンジの表情に汗が流れる、これは照れ恥ずかしさが入り混じっているか。次のコマでミサトの足元。シンジは目をそらしてうつむいた、上のコマから下のコマという視線の流れに沿っているのも動作を意識しているのかもしれない(偶然かもしれんが)。シンジの表情は陰り、ミサトのセリフは黒い背景と光の多重線によって浮き上がる。アニメの光と影の演出の影響か。シンジの視線に映っているものとも考えられる。次頁で、やはりまだ顔をうつぶしたままのシンジが膝に置いた自分の手を見詰めた、「ぎゅ」というわかりやすい表現で彼の決意が語られる。うつむきながらも、左手にシンジ、右手にミサトを対置して描くことで、会話が向かい合っていることを演出。だが134頁6コマ目で正面のシンジが描かれると、彼の正面に立っていたミサトが激高する。しかし彼女の背後からの構図で表情は描かず、冒頭のミサトの冷めた顔・特に目の印象を崩さない。6コマ目は、シンジが得意気になった表情を強調すると同時に、彼がうつむいている間にミサトが彼の正面に移動したことも表現していたわけだ。だから突然正面から彼女に言葉をかけられてシンジの頬に斜線が少し入る。自分自身と向き合っているミサトに対する嬉しさともとれるシンジの表情、彼は顔を上げて彼女の声を聞き始めた。
 2巻133頁
 2巻134頁6コマ目 
「あなたが乗りたくないなら……」で背景が暗転、135頁1コマ目と5コマ目への構図の反転の緩衝材だろう。ここで左手だったシンジが右手・つまり聞き手に回り、ミサトは左手に回って彼に次々と問いかける、立場が逆転した。
 2巻135頁1コマ目
 2巻135頁2〜5コマ目
 136頁6コマ目で首を傾げるミサト、身体を動かす意図を込めて描くことで、次頁の扉から出て行こうとする彼女の動作に自然と繋がっている。シンジの正面に回るミサトの演出が、シンジを驚かすものであったこととの違いがお分かりだろうか。
 2巻136頁4〜6コマ目
 さて、この場面、シンジはイスに座ったまま一歩も動いていない。よって彼が実際にミサトと相対しているのは後半である。そこをコマを並べて両者を向き合わせることで会話が通っているわけだが、本来向かい合っていないはずの二人を、このような演出で対話させる描写はマンガでは当たり前と言える。貞本版でも散見される現象だ。
 これが、アニメをはじめとした映像とマンガを分ける演出の一つである。いわゆるイマジナリーラインである。
 一方でこの場面においてアニメ版は、図1のように構図が固定されたままの展開が容易である。音声が場面を区切っているとも言えるが、同じことをマンガで描くのは至難である。フキダシや文字は、映像(絵)の情報としては極めて恣意的で読者の視線を誘導しやすいからである。たとえば洋画の字幕であり、テレビ番組のテロップであり、文字情報に視線は流れやすい。つまり、図1は両端のミサトとシンジに視線を行き来しやすくするために、互いのセリフだけでなく、中央に視線をゆるがせる情報(偶然にもここには「NERV」の文字がある)を配置することで、鑑賞者が両者を見る、貞本版で描かれた演出・シンジから見たミサト・ミサトから見たシンジ・カメラから見たシンジ(客観視点)それぞれが図の1枚に凝縮されたと言えよう。アニメで描かれた鑑賞者の視点がコマによって分解されたと考えてもいい(もちろんその鑑賞者とは描き手であり読者ではないことは常に留意しなければならない)。

2 3巻119〜125頁 ヤシマ作戦前のシンジとレイ
 決戦前の二人が交わす短い会話である。貞本版はアニメのセリフを前後させて変化しているが、構図はアニメと同じである(ただし、二人の位置は逆転している)。ここでも前節と同じことが言える。まず互いに同じ方向を向いているので対面していないこと。けれども、コマの絵は向かい合わせる。特に120頁5、6コマ目が象徴的だ。レイを時折見つめるシンジの表情を描き、身体の向きはそのままだが言葉は・心は彼女と対面しようとするシンジの感情が描かれているように思える。「絆……だから」で組んだ手をアップにするのも巧みである。
 3巻120頁5、6コマ目
 零号機の機動実験で暴走してしまったエヴァから投げ出されるようにして脱したエントリープラグ。中のレイの元にいち早く駆けつけたシンジの父・ゲンドウは、高熱のハッチも厭わずこじ開けて彼女を救い出す。この挿話が回想される契機となったゲンドウの手のひらの火傷が、レイの手から連想されるだろう。シンジの「父さんとの…?」という問い掛けがこれを補う。
 真横の顔しか描かれていなかったレイの表情に変化が訪れるのはここからである。斜め前からの表情が捉えられた。彼女がシンジに心を向けようとしている・二人の心理的な距離が縮まろうとしてる感覚である。122頁3コマ目でレイはシンジをついに見ることになる。
 3巻122頁1〜3コマ目
 アニメ第六話より
 アニメも似たような経過をたどる。前節とは違って構図を固定しない。上図を見れば明白だろう、二人の間には、暗闇があるだけなのだ。
 アニメ第拾七話より
 アニメ第拾九話より
 対峙する二人の会話の場面においてほとんど静止した画像が用いられる例はアニメで多く見られるが、1と2の背景の違いは偶然ではないと思う。全編を見に影響している、と感覚的にだが考えられる。たとえば、第拾七話「四人目の適格者」でジオフロントに向かう車内で会話するゲンドウと冬月の場面、二人の間には車窓から見える町並みが流れ続ける。ほぼ真ん中には夕陽。ここでは冬月が街について語り始め、ゲンドウが更に持論を付け加える、という意味で、背景の町並みが二人の制止した画を支えている情報であることが伺える。あるいは、第拾九話「男の戦い」の加持とシンジが会話する場面、背景では使徒を攻撃するミサイル等が飛び交っているパターン化した映像が流れ続ける。そのために動きはあるものの背景は書割のような印象を与えるだろう。だが、この単純化によって使徒を攻撃し続けるという情報が与えられると、二人の長い対話は同じ構図を維持しえる場の力を持つことになった。
 この時、1と2のマンガ化で排除されている情報が何かと思い返せば、アニメにとって「NERV」のロゴと暗闇の差も見えてくるように思える。
 3巻119頁
 1の場面を読み返す。二人の表情や挙措、フキダシ、ちょっとした表情の変化。中心は言葉である。二を読み返すと、やはり中心は言葉であるように思える。アニメで異なる演出が取られた場面が、マンガ化によって似通った場面になったわけだ。では、マンガ化で工夫されたこと・1と2を区別する演出はなんだろうかとそれぞれの冒頭を見れば自ずと答えが見えてくる。
 1はカメラから入り、室内という空間をまず描いている。シンジがどのような状況下でイスに座っているか、ミサトと話すのかに重点が置かれている。2冒頭の大きなコマは、アニメ同様に二人の現況を描写したに過ぎないように思える。そのような意図があるにしても、結果的に、シンジとレイが今置かれている立場が、日本中が真っ暗となった、その中心に居座っている二人・まるで世界には二人しかいないような錯覚が描かれている。次頁の「僕達 死ぬかもしれないね」というシンジのセリフの「僕達」がシンジとレイのことなのか、世界中の人を指しているのかは判然としないが、おそらく多くの読者はシンジとレイのことを指していると読んだだろう。「絆……だから」「父さんとの…?」というやり取りの後で、アニメと貞本版が違う回答を用意していることからも、それが察せられる。アニメでは、シンジの父だけではなく、みんなとの絆と語るレイだが、貞本版は私には他に何もない、とゲンドウとレイの関係がアニメより強く描かれるセリフが選ばれている。

3 5巻77頁 墓前から去るゲンドウとジンジ
 アニメ第拾五話より
 5巻72頁より
 母の命日で墓参する場面。アニメではシンジが前、ゲンドウが後ろだったが、貞本版は両者の立ち位置を入れ替えている。これにより、父は子に背中を向けて拒絶しようとするというわかりやすい描写が展開され、またゲンドウはレイに対してだけ正面を向ける対照性も見出せる。だが、ここで考えるアニメと貞本版の比較は、77頁4コマ目のレイのアップである。ゲンドウを迎えに来た機体に乗っていたレイの1カット。アニメでは1秒にも満たない短さである。貞本版は、この一瞬の時間を小さなコマとレイのアップで表現した。
 5巻77頁より レイのアップ
 さて、このコマはアニメを忠実に再現したと言えるだろうか。結論は単純な話である、読者がそのコマを読む時間を制御できない以上、再現は不可能だ。アニメで目立つ、認識できるか否かの細かいカットの連続は、混乱するほどの大量の情報を鑑賞者に与えることで、意味のない絵の連続に一貫性が自ずともたらされてしまう受け手の態度を期待してのものである。たとえ1カットであろうとも、受け手はゲンドウがレイの元に向かう、という瞬間を体験する。貞本版は同様の印象を与えない。小さなコマとはいえ、レイが描かれることで、体験は永続する、確実に読者の根に居つくかもしれない。読み直しが容易なのもマンガの特徴であることを踏まえれば、レイの表象そのものが読者に刻まれる。アニメの一回性の視聴とは異なる効果があるのは自明とはいえ、メディアの違いによるこうした差は、マンガのアニメ化を考察する上はもちろんのこと、「エヴァ」のようにアニメのマンガ化を考察する上でも見落としてはならないし、印象が違うからと言って失敗したと断じるのも軽率だろう。
 そこで意味を持つのが墓の前のゲンドウとシンジの立ち位置の違いである。対称性以外に、各登場人物の意識の差が浮き上がってくる。
 アニメでは父に顔を向ける
 アニメでは、すでに墓に花を添えたシンジの元にゲンドウが訪れ、そしてレイが待つ場に去っていくという構図である。動いているのはゲンドウだけだ。逃げ出しては戻ることを繰り返すシンジは、時に父からも逃げようとしていたが、母を介してならば父と対面することが出来る。だが、ゲンドウはそれさえもままならない。彼が物語の終盤で子とどう接していいのかわからないと告白するが、結果的にこの場面が父としての逃げを暗に示しているように思える。シンジを避け、レイの元に逃げ込むような印象をも与えかねないだろう。

 マンガでは、墓を前にゲンドウは常にシンジに背を向け続ける。アニメはシンジが振り返って父と顔をあわせるが、マンガではそれさえはっきりと描写されない。しかも父の逃げはアニメより自覚的に描写された。シンジが来る→迎えが来るまで背を向け続けるゲンドウ→父なりの言葉を子に伝えはするものの、私をもう見るなという拒絶が宣せられる。サングラスで眼が描かれないゲンドウの描写は、何を考えているか判然としない。アニメで頻繁に描かれる彼の眼は、どこかよそよそしい視線の揺れを描いて気まずい二人の関係を示しているが、マンガは、コンマ秒単位の微妙な揺れまで表現できない。眼の情報を排除することで、彼の本心を暗に隠し、逆に眼を描いた時に彼の本心が垣間見えるという演出を行う。上図は、この場面でゲンドウがシンジに見せた唯一の眼である、彼の言葉の重みが理解できるだろうか。
 ではレイとは心を向き合わせているかと言えば、そうでもない。マンガのコマの永続性が、アニメでは描かれなかった車内でのレイとゲンドウの会話に繋がっている。
 レイとの会話でゲンドウの眼が描かれる。サングラス越しに描かれる眼差しがゲンドウの感情を物語り、彼の安堵のような笑みがシンジに向けられないことを読者に提示することで、父子の関係に思いを馳せるような演出が施された。しかし、ゲンドウに寄り添っているような印象のレイも、ゲンドウの気持ちが自分に向けられていないことを悟っていたわけで、自分は彼が見詰めているもの(言うまでもないけどシンジの母・ユイのことである)と違う存在であることに懊悩する姿が描かれた。
 また、この場面はシンジのモノローグに始まり、レイのモノローグで終わっている。つまりゲンドウは二人の子どもの間を右往左往している構成にもなっていた。二人との関わり方を描くことで、ゲンドウの喪失感と孤独感がほの見える仕組みである。

4 6巻149〜150頁 第八使徒(アニメは第十三使徒)との戦闘場面
 戦闘に臨むシンジの心理状態に違いはあるものの、戦闘経過はアニメに準拠している貞本版である。もちろん3で触れたようにアニメと同じカットをコマで描いたとしても受け手の印象には大きな差が生じることから、戦闘場面においても工夫が凝らされている。
 図2−1
 図2−2
 まずアニメのカットを示そう。図2―1。左手が使途、右手がシンジが乗る初号機である。手を伸ばして首を絞めている使徒が、反転して山に初号機を押しつけた(図2―2)。首を絞めたまま一気に叩き付けた、という勢いが得られている。だが、イマジナリーラインを意識した時、使徒の攻撃を描いた2つの画は、ラインを破るという禁を犯してしまう(ラインは絶対に守らなければならないわけではない。後の章で実写映画とそのアニメを例にイマジナリーラインと受け手の関係を考えてみたい)。そこでアニメは図2―1と図2―2の2つの場面を緩衝材として短いカットを差し挟んだ(図2―3と図2―4。初号機の中のシンジの正面のカットと山の沿線)。これにより、首をつかまれた初号機が振り回されたという印象を受け手に与えることになる。衝撃度が増幅されたカットだ。
 図2−3
 図2−4
 マンガ化に際し、作者はこの緩衝材を排除してしまう。だからといって闇雲に図の構図をそのまま並べては、読者を混乱させかねない。では、初号機を首を絞めたまま振り回した使徒という絵はどのように演出されたか。図2―5と図2―6を見ると、一見アニメをそのまま描いたように思えるが、両者の間には、読書というアニメでは絶対に得られない物理的な動作が計算されている。めくり効果である。
 図2−5
 図2−6
 ページを捲るという現象が、使徒の攻勢を増幅しているのである。さらに、最初のコマは下への断ち切り(余白一杯にまでコマを広げたコマの構成を言う。迫力やスピード感が得られるなど、主に動きのある場面の演出に用いられる技法)である、使徒の腕が地面から出てきて初号機の首を掴むという上下運動を意識させられている読者にとって、断ち切りはその強度を増す上で重要である。つまり、そこから横に移動するような動作が想像しにくいということだ。めくり効果によって、反転を果たした使徒、ここでは右端が断ち切られている。右から左へ移動する勢いがコマ枠・遮るものの喪失で否応なく増すとともに、使徒の力強さも強調される。
 マンガを読むという行為が潜在的に持っているいくつかの性質は、アニメでは表現できない描写を可能としている。この場面はそのほんの一例に過ぎない。

5 7巻150頁 暴走したエヴァがATフィールドごと使徒を切り裂く場面
 続けて戦闘場面を考察しよう。
 第拾九話「男の戦い」。反撃に出たものの内部電源が切れて停止した初号機は、使徒の攻撃を無防備のまま受け続ける。シンジの「動いてよ!」という絶叫は再びエヴァの暴走を生んだ。初号機は圧倒的な力で使徒を粉砕、中でも強烈な一撃となるのが、右手を振り下ろして使徒のATフィールドもろともに切り裂いてしまう場面である。貞本版は、この一閃にモンタージュ、見開き、大コマと迫力の演出に努めたが、果たして。
 仮にモンタージュという言葉を用いたが、説明すれば、同じ構図のままで状況の変化を細かく描いていくコマ構成とでもいおうか。図3がそれである。その前々頁では振り上げた右手を一気に叩き潰すようにして振り下ろす状況が描かれているが、動きを細かく分け、かつ大コマによって詳細に描写することで、エヴァの力は表現されているものの、スピード感は殺されている。アニメと同様の場面を写し取りながらも、ほんのわずかな時間の出来事を数コマに分解した結果である。マンガの弱点と言えよう。
 図3
 4ではめくり効果で煽れたスピード感だったが、今回それは用いられていない。めくり効果は横の運動には有効だが、上下運動の描写は苦手と言える(ただし、これにも例外的な演出法があるので後述したい)。
 アニメでの衝撃度はタメにある。右手を振り下ろす→一瞬の静止→血がATフィールドに飛び散り使徒が切り裂かれる、この2つの状況にある間が効果的なのである。一瞬で終わる動作を挟むことで、静止時間がわずかでも、とても長い時間であるかのような錯覚が映像の編集で施された。一方、貞本版はこれをコマの大きさで表現しようとした。図3前頁の見開きである。この見開きそのものは、確かに大きな間・一瞬の静止となっている。けれども、両端の場面にスピード感がないために、非常にゆったりとした印象を与える戦闘場面となってしまった。
 わかりやすいと言えばそう言える場面である。アニメならスロー再生したような感じだろう。だが、音まではスロー再生できないのも欠点といえよう。これは貞本版に顕著な、擬音の貧弱さである。「バシェッ」という音声ではなく、その形状である。
 擬音を絵の一部と捉える作家がいるほどに擬音の描写は作家の個性となっている。ところが貞本版はどれもこれも似たような形で、斜体でちょっと細長いような黒い文字か図3のような白抜き文字のいずれかで、およそ平坦である。コマを連続することで表現されたエヴァの力とその衝撃度は、コマを横断する擬音がために・さらにいつもより縦長で素早く描いた書体のために、スピード感が込められてしまったのである。そのために中途半端な印象だけが先行しがちで、アクション表現をコマで再現することの困難さが顕になってしまった。

6 8巻158〜160頁 ミサトと日向の対話あるいは11巻24・39頁のリツコへの尋問
 第弐拾四話フィフス・チルドレン・渚カヲルの調査報告をミサトに伝える日向。アニメでは同一の背景を長時間(約45秒)映し続け、かつ、二人とも静止したままの状態であり、1と2で挙げた例とも共通点が見える。
 図4−1
 図4―1のように背景では本部施設の修復が行われており、赤い点が明滅している。工事が現在もなお続けられている、という情報になっている。このような遠景は特にこの二人の対話においてよく見られる演出で、穿ち過ぎかもしれないが、意味があるのかもしれない。妄想してみよう。貞本版から脱線するが、少し列挙してみると、図4―2〜図4ー5になる。
 図4−2
 図4−3
 図4−4
 図4−5
 一枚を除き、中央には赤い点が明滅している。工事中という意味だけでなく、そこに人が息づいている・人がいるという情報にもなっている。遠景によって、二人が人々から遠く離れた場所で話している・秘密裏に会っているという視点もあり得よう。しかも図4ー4の赤い点(画像中央の上)は使徒渚カヲルの位置を示している点であり、二人の調査動向は彼に把握されていたことを暗示しているとも読み取れる(もちろん考えすぎであることは承知)。特にミサトが一人でいる図4ー3の遠景、この場面は一人で行動していたカヲルをミサトが直接監視していた直後の絵であり、明滅する赤い点にカヲルの視線を感じてしまう。カヲルはミサトに観察されていることを知っていたことが次の場面で描かれ、赤い点に意識が働いてしまった。赤い点がない図4ー2は、図4ー1とのよい比較になる。つまり、修復工事は終わった、という情報が含まれているからだ。
 貞本版に話を戻すと、やはり各コマに解体されて描かれるのはやむを得ないのだろう。3頁14コマに分けられた。ほとんど足元を動かさない点でアニメの演出を踏襲しているようだが、様々な角度から二人の表情を捉えると、アニメでは得られない異様さが感じられた。お互い背を向けて話し続けるが、日向は顔をそらしてミサトをほぼ見詰め続けている。
 日向がミサトに好意を抱いていたことはアニメ第弐拾四話で明かされる、図4ー4に近い場面だ。だから、その意味を持ってこの場面の二人の感情を推察することも出来るが、ここは貞本版の演出のみで考えれば、やはりアニメの関係を意識した演出であることがわかる。9巻146〜147頁では車内でカヲルについて対話する二人だが、ここもミサトは日向と顔をあわせないからだ。11巻36〜38頁でようやくミサトは彼の顔をのぞいたような表情を描写されはするものの、この時の日向の目はメガネの反射に隠れて閉ざされている。ミサトが彼に求めているものは、カヲルの情報という点において、彼女の態度は一貫していた。そして11巻69頁・図4ー4にあたる場面において、ようやくミサトは日向の顔を見て彼への気遣いある言葉を掛けたが、それはもしもの場合の本部施設の自爆を伝える時であった。
 さて、顔を合わせないままの長い対話は、アニメはもちろん貞本版でも徹底して描かれている。他の例として、リツコの尋問場面を比較しよう。


 まずはアニメ。同一構図で延々と言葉を交わす二人である。左図(アニメ第弐拾四話)はどちらもリツコは画面左手。中央には「NERV」のロゴ。1と同様の演出がなされているが、赤色が極めて目立っている背景である。これは加持が殺される直前に見たNERVのロゴを「まるで血の赤だな」と、今まで口にされなかった色彩の印象についてはっきりと指摘し、鑑賞者の見方を方向付けた結果でもあろう。1が光と影で対峙する二人の関係を炙り出そうとしていたのとは違い、ここでは血から連想される諸々を背景にすることで、悲劇または惨劇を予感させる情報を隠しているのかもしれない。そして第二五話で、実際に血に染まっていくNERVのロゴが、予感を現実のものへとしていった(貞本版では、加持のそのセリフは彼自身の最期を彩るものとして扱われている)。
 貞本版は同様の構図を取りながらも、マンガゆえの立ち位置の違いが明瞭である。右から左に読む流れ上、コマ内の人物配置は基本的に問う側が右手、応える側が左手である。フキダシの配置のしやすさも関係している。つまり、その場面の主導権を握っている人物は問う側・右手に描かれやすいということである。
11巻24頁1〜3コマ目
 11巻24頁の場合はゲンドウが場を仕切っていることになる。彼はリツコにダミーシステムを破壊した理由を糺そうとするも、彼女の答えになっていない言葉に「失望し」て去っていく。続く場面でゲンドウは初号機・ユイに向かって語りかけるこで、彼がリツコに心を向けていないことが判然とする。ゲンドウに背を向け続けるリツコの強がりというか、彼に対して出来うる唯一の反抗として彼に顔を向けない姿勢とでもこじつけようか。リツコの切なさが、ゲンドウの描かれ方によって演出されている。
11巻39頁1〜4コマ目
 では同39頁はどうだろうか。質問側はミサトだが、場を支配しているものはリツコの言葉である。カヲルの正体を淡々と明かすリツコの言葉は、主導権を握ろうとするミサト(次の場面の質問でミサトは右手に描かれる)だが、リツコは背を向けたままカヲルが使徒だと告げ、その余韻のままにカヲルが弐号機を発進させる場面へ移行する。先ほどのリツコ同様に、ここでは何も知らなかったミサトの孤立感が演出されている。マンガの場の力を考慮した時、貞本版はこの場面においてマンガに従順だったといえる。

7 10巻55頁 レイの最期
 個人的にこの場面はアニメより感動した。続く場面も含めて、とても上手い表現がなされていると思う。アニメという土台があったからこそなしえた演出とはいえ、アスカを早々に退場させてカヲルを早期に投入するといったアニメとの違和を感じさせない貞本版エヴァとして瞠目している場面である。


 アニメと貞本版を並べてみよう。貞本版が描線を減らし、レイの表情をシンプルに描いていることがわかる。また、画面のまばゆいほどの白さを、右上から差し込まれる輝きがコマ枠の右上が欠けたことで、レイの周囲がよほど輝いていることが表現されている。トーン処理やベタフラッシュ、集中線といった手法ではなく、空白によって白さを描く。右上からの光に包まれていくレイの印象は、4コマ目を左辺を広げてやや大きく描くことで、右上から左下への光あるいは視線の運動を受けた衝撃度を表している。しかも断ち切りではない。エントリープラグの中・限られた空間の中で白さに包まれていくレイがコマ枠の消失→コマ枠の拡大という空間で表現している点が巧みだと思う。アニメでは一瞬画面を真っ白にすることで表現されたが、マンガのコマ・自由自在に大きさを制御して表現できるコマの利点を生かしたのだ。零号機の爆発を見守るシンジやカヲルたちの描写も、コマ内は似たような描かれ方だが、コマを断ち切ることで爆発(白さ)の衝撃が拡散していった。
 さらに、使徒に侵食された顔を貞本版は4コマ目で消し去り、レイの表情をよりシンプルなものにする。加えてアニメよりもはっきりと描かれた笑顔が素晴らしい。
 泣きながら笑う。ヤシマ作戦成功の直後、使徒の攻撃で倒れた零号機のエントリープラグ内のレイの元に駆けつけたシンジの表情である。この時、レイは一瞬ゲンドウが来たと錯覚したが、すぐにシンジと悟り、その表情に困惑する。嬉しくて泣いていると説明するシンジに、レイは「うれしい時も涙が出る」ことを知り、嬉しかったら笑うことを学んだ。レイの最期の笑顔は、シンジのおかげなのである。
 爆発直前、アニメにおいて、零号機の姿は裸のレイに変わり、赤ん坊のように両手を伸ばして立ち上がるや天使の輪が頭上に一瞬出来るも、すぐに輪は収束して大爆発を起こした。貞本版は、この場面をレイの内面描写に置き換える。
 10巻66話の表紙は爆発直後から始まる。空に向かって両腕を伸ばした構図だ。続けてレイのモノローグが太陽に向かっていく集中線の煽りを背景に刻まれる。アニメを観た者ならば、レイが腕を伸ばす感覚を一層強く理解できるはずだ。5の図3のような、コマの流れを乱していた擬音も爆発場面では一切描かれることはないために、レイのモノローグだけが情報として恣意的に読者の感情を支配することになる。ほんの一瞬の出来事を10頁にわたって克明に描き、文字情報はレイの言葉だけに絞った。モノローグそのものもまだ続きがありそうな感じを微妙に残しつつ、衝撃波で周囲が空白に包まれる画面を数頁描き、各登場人物の表情も捉え、「ゴオオオ」という擬音から事態を飲み込み始めるシンジに画面が移る。ここでの単調な擬音の描線は無感情で、偶然にも効果的である。
10巻66話表紙
 レイのモノローグに始まり、シンジのモノローグで終わる。レイの言葉の余波は、シンジのヤシマ作戦時のレイ救出の回想につながり、最期の笑顔の意味と、彼女のモノローグがシンジのそれにおそらく繋がっているだろうことを予感させてくれる。レイとシンジの関係が感傷的に描かれた結果得られたシンジのとてつもない喪失感が、ここに凝縮されている。

8 11巻106〜107頁 カヲルの最期
 渚カヲルの扱いがアニメと大きく異なっている。アニメでは第弐拾四話「最後のシ者」で初登場する彼だが、貞本版は、アスカを使徒の精神攻撃で一端退場させ、空いた二号機パイロットの穴埋め役として計画的に登場させられた人物である。初登場時のシンジとのやり取りもこの場面のために用意されたものであり、子猫を巡るエピソードは、アニメを見知っているものにとって刺激的である。カヲルという人物の性格設定も同時に描かれているだけに、カヲルの最期に二人の出会い当時の子猫を思い出させる展開も、より刺激的であろう。
 というのも、アニメによって「首を絞める」という行為そのものが、すでに特別な意味を持ってしまっているからである。具体的にどんな意味と問われれば言葉に窮するけれども、第二六話「まごころを、君に」のラストが、エヴァそのものの呪縛と化してしまったとも言え、貞本版も例外ではない。
 ラストの首絞めとアスカの一言で閉幕する物語について語るほどの教養を私は持っていないが、貞本版は、アニメの衝撃を逆利用し、読者に何かしら緊張感を強いる道具とした。アニメ・つまり原作を知る者だけが体験できる感覚である。
 ではアニメを知らない読者の場合はどうか。貞本版のラストがどうなるかは現在(2008年2月)も連載中のため不明だが、仮にラストと似たような終幕を迎えた場合、ここの場面は一層深い意味を持つことになるだろう。アスカの首を絞める場面が訪れれば、読者はもちろんシンジもカヲルを締めた「手のひらの記憶」(カヲルを殺す挿話・74話の副題)を思い出さずにいられない。
 さて、この見開きの背景には、重要な情報も描かれていることに気付かれただろうか。廃墟の教会、子猫を抱いたシンジはピアノの音に導かれてカヲルの演奏に出くわした、この場面の背景には、倒壊し、あるいは崩れかけたビルが見え、教会も天井が吹っ飛んでいないようだ。建物の残骸が周囲に散らばっており、使徒との戦闘の激しさを物語る。再建の目処すら立っていない郊外の様子とも考えられる。では、カヲルの最期の背景の中で描かれている建物はどうなっているだろうか……ほとんど朽ちている、特に教会と思しき建物は完全に倒れているのである。
 出会いの背後で流れていた音楽すらここでは否定されている。零号機の爆発の影響だろう(そもそもその爆発によって消し飛んだ地域かもしれず、この背景は二人の心象風景を描いたものとも言える)が、教会もピアノもその音もすでに無くなっている。すなわち、シンジにとってカヲルとの出会いの記憶そのものが手のひらに思い出として刻まれたのである。しかも、トウジの乗ったエントリープラグを握りつぶしたという記憶に上書きされることで、シンジはその罪悪感からも解放された(と思われるがそれをほのめかすような描写は見られない)。カヲルはシンジの手のひらで永遠に生き続けることになり、首を絞める行為が、作者や読者だけでなく、シンジというキャラクターにさえ呪縛として刻印されたのである。
11巻106-107頁見開き
 ここにおいて、シンジは手のひらに2つの記憶を持つことになるわけである。次章では、もう1つの記憶について考察しつつ、アニメとの比較から浮かび上がってきた貞本版の特徴・背景描写について総括していきたい。

急 綾波の記憶

1 最初の綾波
 手のひらの記憶はアニメでは言及されない貞本版オリジナルの内面描写だが、もう1つ忘れてはならない描写がレイとの交流である。レイをアニメよりも感情的な存在として描くための設定として描かれたと思われる一連の展開は、シンジにとっても作品にとっても、無視できないほどの重要な場面にまで発展した。まず、最初の接触場面を見てみる。
 重傷にもかかわらず初号機の搭乗をゲンドウに命ぜられたレイが使徒の攻撃による施設の振動によって倒れてしまう。シンジは彼女を抱え、エヴァに乗る決心をする。アニメに準拠した展開である。後に「何も感じなかった」と語るレイ。ATフィールドはカヲルによって人の形を維持する心の壁と解説されるが、首を絞めるあるいは握手をするという行為は、どちらも握りしめることで相手のATフィールドを侵犯しているとも言える。最初の接触は、シンジにとって咄嗟の判断とはいえ、レイにとっては全く想定していない事態であることは明白だが、シンジにとっても同様であった。
 彼は父・ゲンドウにエヴァに乗れ、乗らぬなら去れと詰め寄られていた。彼が決断する場面では、レイの苦しみゆがんだ表情が描かれる。つまり、彼は自らの意思ではなくレイのため父のために仕方なく乗る、という心算が強調されている。シンジの手に支えられるレイは言い訳のための存在に過ぎず、感情はない。シンジも何も感じていなかったわけだ。
 さてしかし、連載初期の頃とあって各登場人物の描写に統一感が見られず、アニメをそのままマンガ化しているという印象がある。今も変わらない単調な擬音もしかり、マンガにはない音をどう表現するか、という意識よりも、アニメの場にあった音を書き写しているだけという感じだ。そのためにコマ割への配慮が乏しいと思う。
1巻78頁3コマ目
 1巻78頁・決意したシンジの次のコマが遠景となる、ズズズンと何かが崩れている音が背後で鳴っている。一瞬の沈黙をこのコマで捉えているわけだが、コマが小さいために彼の言葉がどの程度伝わったのか判然としない空気が作られてしまった。リツコの「よく言ったわ」という言葉で読者は事態の変化を知るわけだが。もっとも、この場面ではミサトのシンジへの感情・父との複雑な関係に同情した風にも見え、そんなシンジの気持ちに構わずパイロットの「予備」として接するリツコの態度との対比も描かれているので、ではどうすればいいのかと言われるとわからないけれども(またはシンジを見詰める初号機(ユイ)の視線という見方も出来るよう)。
 だからといってこの場面に意味がないわけではない。シンジの気持ちを察したミサトは、使徒撃破後の街並を彼に見せることで、父の代わりを果たそうとするからである。物語にとっても、レイはまだ特別な存在ではなかった。

2 綾波の風景
 レイの部屋へ更新されたセキュリティカードを届けるシンジがそこで遭遇する出来事は、アニメほどではないが貞本版もレイの心の拠り所やシンジの彼女への気持ちの揺れ具合を静かに描写している。特にレイの普段の生活がのぞかれることで、彼女の神秘というか不気味というか冷淡さというか感情に読者も注目させられ、これまでの彼女とこれからの彼女の変化を捉える分岐点にもなっている、読者はシンジと同化しているとも言えるだろう。
 閉ざされたカーテンの隙間から差し込む光、クーラーの「カタカタ」という音、簡易ベッド、ほどかれた包帯の山……ひび割れたメガネ。経緯の多少の差はあるけれども、アニメに倣った描写であることは間違いない。レイの性格は貞本版の方が穏やかな印象がある反面、無感動な挙動は貞本版が強調されている。また「シャッ」という擬音の意味をアニメ未見の方々がどれだけ理解できたか、という疑問もあり、原作にかなり依拠している。
 だからといって貞本版独自の視点がないわけではないので少し触れておく。実は、この場面の優れた演出がレイの登場である。読者の視線運動を考慮した上で映像表現の一部を取り入れた演出がここに描かれていたのである。
3巻48-49頁
 マンガが不得手とする擬似映像表現に下から上への運動表現がある。マンガならば大コマいっぱいに登場人物を描くとか、1頁にコマ枠を無視して全身に近い像を描いてしまうとか、強い印象を読者に与える登場場面にはいくつかの典型例があるが、映像の場合の典型例が、人物の足元から頭へとカメラを上になめていく・いわゆるパンアップである。マンガでは縦一杯に描かれていたポーズを決めて登場した人物が、映像化されたときには、原作と同じポーズのまま、足・腰・胸・頭と少しずつカメラが動いて一部を捉え続け、頭のてっぺんまで行った所で改めて全身を映す、という演出はよく見られる。貞本版は、これをレイの登場で表現したのである。
 シンジが振り向くと、アニメではいきなり全裸にタオルをまとったレイがいたわけだが、貞本版は、まずレイの足元を捉えるのである。そして見開きの次頁でレイの全身像を描くと、読者の視線はある程度下から上への運動に一瞬なるわけだ。これは見開きの効果も大きい。読書中、見開き右頁下のコマから左頁上のコマへの視線運動が唯一下から上に移動する瞬間だからである。ここにレイの足元とレイの全身を置くことで、貞本版はアニメでは演出されなかったパンアップ(のようなもの)を表現してしまったのだ。
「少し気持ち悪かった」と言われた2度目の接触は、レイとシンジにとって意想外の展開だったが、好悪いずれにせよ互いを意識した瞬間でだった。ここから、二人の関係は劇的に変化していく。

3 綾波の笑顔
 第五の使徒の攻撃で一時入院したシンジの元に、ヤシマ作戦の内容を伝達に来たレイがやって来る。ベッドで横たわっていたシンジは幼い頃の夢を見ていた、覚める間際に「母さん……」と呟いたのは夢か現実か。脇に立っていたレイの顔にシンジは恥ずかしげに「綾波…」と言った。一方のレイは、ヤシマ作戦後のエントリープラグからシンジに助け出されると、彼の姿に、レイは「碇司令…?」と一瞬錯覚する。
 2度目の接触から間もなく、ヤシマ作戦において二人の互いの意識がこのように交錯することになる。シンジはレイに母を、レイはシンジにゲンドウを見る。これがやがて本人自身に変容していくわけだ。
 さて、この場面ではレイの表情に注意が向けられるような描写が慎重に紡がれている。めくり効果と大コマで見せ場となるレイの笑顔を引き立てるために、横たわるレイの顔をほぼ一定の視点・構図から描き続けるのである。同一の構図であまり変わらない表情を描くことで、ちょっとした仕種や変化を目立たせる効果があるわけだが、つまり笑わないレイの顔を延々と見せ続ける。対してシンジの表情は泣いたり笑ったり戸惑ったり真顔になったりとくるくる変わる。それに合わせるように彼の顔はいろんな角度から描かれ、イマジナリーラインもあまり意識されることなく、右から左から捉えられる。二人の位置は変化していないが、シンジのこの描写によって、彼がレイを様々な角度から見ているような雰囲気さえ出てくる。
 先程の作戦内容を伝えるレイとベッドで半身を起こしたシンジの関係はどう描かれているか。ここと比べれば、シンジの心配している様がはっきりするだろう。まだ互いに警戒心が働いているために、特にレイの表情はシンジの涙に少し色を見せるものの、目立った変化は現れていない。顔の描かれ方も一方的で、イマジナリーラインを遵守しているようにも見える。だがマンガにおいてはラインはそれほど重要視されていない(重視している作品や作家もいる。またアクションシーンに限れば、ラインは読者の読みやすさを助けるためにも守られる傾向がある)と思われるところがあって、例えばアニメでは基本的に使徒エヴァの戦う位置がそれぞれ左手・右手と定まれば、以降立ち位置を入れ替える等の具体的な戦いの変化が展開されない限り、最後までその位置は守られ続ける。貞本版の戦闘場面も同様の傾向があり、一般的なマンガの手法を取り入れている。だが、異なる点がないわけではない。それが、戦闘を見守る人々の視点である。
 アニメはほぼ統一されている。エヴァが右手ならばミサトたちも右手に描かれる。これが使徒と同じ側に描かれていれば、鑑賞者は、ミサトたちが使徒側だと一瞬混乱してしまう可能性が強い。けれども貞本版は、後方でエヴァを指揮監督するネルフの人々をコマという別の空間で描き分けることで、混乱を避け、同時に戦いが全方位から描かれているかのような構成が施されている(ただし、これはあくまでそのような結果に至ったに過ぎず、演出意図とは無関係だと思う)。
 ではここでちょっとわき道にそれよう。アニメ作品「涼宮ハルヒの憂鬱」(以下「ハルヒ」と略す)と映画「リンダリンダリンダ」(以下「リンダ」と略す)の2つを比べて考察してみる。


 引用するのは、ライブ演奏シーンである。「リンダ」と同様のシーンを模倣した「ハルヒ」を比べることで、映像演出で意識されるイマジナリーラインをあえて破ることで得られる効果をマンガに援用してみたい。
 まずは「リンダ」。左手に演奏者(ペ・ドゥナ香椎由宇前田亜紀、関根詩織)、右手に観衆(生徒達)と関係は定まっている。演奏が終わるまでこの関係は全く変わらない。演奏者は正面の構図と左手からの構図でほぼ統一され、観衆は正面と右手からの構図。ぶれがないということは、それだけ音楽に鑑賞者をひきつけやすいということだ。細かいカットを連ねたり、奇抜な構図を設けて鑑賞者の視線を乱さずにかっちりと固めるためにも、ラインは重要なのであろう。
ハルヒ」は、図のとおり最初は「リンダ」に倣っている。実際に似たようなシーンが多いわけだが、この映像は、途中で唐突にハルヒのアップを映す。本来観衆の側だった右手にハルヒの横顔がどんと置かれるのだ。しかも、この映像は画面が揺れている。臨場感を得、ハルヒの熱唱がクローズアップされると、ラインははじめからなかったかのように観衆が描かれる。ライブの昂揚感がカメラに宿っているようだ、もうバラバラである。画面を揺らして鑑賞者の視点を乱すにとどまらず、左手・右手の関係も崩してしまう。たびたび描かれるハルヒのアップに否が応でも注視せざるを得ないだろう。
 つまり、ここではハルヒが中心にカメラ(あいるは構図と言い換えてもいい)が動いているのだ。「リンダ」が映像ではなく音楽を中心にしたのとは正反対に、映像を動かすことで、歌っているハルヒの姿(と演奏者たち)に注目していると思われるのである(また、図ではわからないが、ペ・ドゥナの歌唱力が弱いというのもあるだろう。「ハルヒ」はどんなに絵を動かしても、平野綾の力強い歌声がぶれることはなかった)。
 マンガでは視線力学(byイズミノウユキ。会話や戦闘の立ち位置の入れ替わりを主導権争いと見立ててコマ割や構成を考えるマンガの構造分析の一手段)という有効な解析方法があるが、そこで何を描くのかということに着目してみるのも一興である。下図(3巻141頁)は使徒の砲撃を受ける場面だが、ミサトたちのコマが使徒側に置かれているのがわかる。このような描写をアニメで行えば、やはり鑑賞者を惑わす結果になるだろう。だがマンガだと読み得るのは何故か。推測だが、「わああああ」というフキダシが大きな役割を果たしているのではないかと思う。「ハルヒ」のラインの切り替え・画面の揺れと唐突なアップを歌声で支えたように。仮にここでミサトたちもシンジと同じ側で描かれていたとしたら、彼女達はシンジの悲鳴を聞く側ではなく、聞き流す側になってしまう、シンジの感情を受け止める者がいない孤立状態が顕になってしまいかねない。そして、シンジを物語の軸に置いているから人物のぶれを読者は受け入れられる。
3巻141頁
 シンジの涙に戸惑うレイの姿が中心となっている場面だからこそ、彼女の表情は固定されており、レイの笑顔の美しさが増幅されたわけである。

4 綾波とシンジ
 アニメではトウジと訪れるところだが、貞本版はシンジ一人にレイ宅に訪問させている。前章3節で触れたユイの墓参を描いていた挿話の冒頭となり、レイの本心をうかがい知ることになる重要な挿話である。レイはここのシンジとの交流によってゲンドウとの関係に疑念を抱きはじめ、後に8巻でゲンドウの手を振り払う決定打に至った。
 訪れたシンジをお茶に招いたレイは、熱いポットで謝って火傷をしてしまう。どうかするでもないレイにシンジは慌てて彼女の手を取って水道水で患部を冷やした。ここでも貞本版のレイへの人間的な視線が見える。アニメでは室内のゴミを片付けるシンジにレイがありがとうと「感謝の言葉」を伝え、レイはその感情の捉えどころのなさに落ち着かないのだが、貞本版は、レイの身体的な傷へのいたわりという明瞭な態度をシンジに取らせることによって彼の優しさを浮き彫りにする。
 ゴミの片付け。不機嫌なアスカなら余計なことをするなと一喝するかもしれない。以前のレイなら・相手がシンジでなければ無関心のまま謝意も告げずに無視したかもしれない。場合によってはシンジの独りよがりで終わってしまう事態をレイの火傷に置き換えることで、自然な態度として描写する。同時に痛がりもしないレイの表情に自分の身体にさえ関心がない様子も示される。
 だが、最も重要な場面は、その後の二人の会話である。いつも父と親しく話しているレイに、どうやったらそんな風に接することが出来るのか。レイは答える、「思っている本当のこと お父さんに言えばいいのよ そうしないと何も始まらないわ」
 レイはその自らの言葉を、墓参を終えたゲンドウとの会話で反芻した。自分こそまだ何も始まっていないと省みるのである。ゲンドウの喪失感と孤独感を墓参(ユイとの対話)を通して描きつつ、シンジとレイの強い結びつきが克明に描かれてもいた。すなわち、お互いを思いやる心(レイの傷を気遣うシンジ、シンジの悩みに正面から応じるレイ)、本音で話し合える関係性、「何も始まっていない」と言いつつ、シンジとレイはいつの間にか互いに本心を打ち明けていたのである。レイはゲンドウとではなくシンジとの関係を始めていたのだ。
 そして同時に、貞本版は自家撞着を抱える。前章7で引用したレイの最期、彼女が見たゲンドウの幻影に笑顔で涙する理由である。レイの心はシンジに向かいながら、最後に見たのはシンジではない。これをどう克服し矛盾を解消するのか。レイをより人間的に描くために貞本版はアニメと離れようとしながらも、アニメとの接点を求めてもがき始める。カヲルの早期投入とアスカの一時退場はカンフル剤となるのか。

5 水の中の綾波
 トウジの死、エヴァの覚醒と暴走、サルベージ計画。6巻から8巻の展開で、レイの心の空白がシンジに埋められていく描写が随所でなされた。初号機に取り込まれたシンジのサルベージでは、レイのモノローグが大量に投入され、その想いが好意であることを強烈に印象付けてくる。具体的な言葉にはならないけれども、「わら人形には戻りたくない」にレイ個人の自立心が明言されている。
 では自家撞着をいかに解消していくか。レイではなく、シンジの感情を抽象的・詳細に描くことで、彼の本心を浮き彫りにさせていく手法が取られた。つまり、レイがシンジの元から静かに去っていくかのように見える場面の説得力を積み重ねるために、レイはシンジにとって母親のようである・恋愛対象にはなりえない理由が説明され続けたとも言えよう。二人の互いの思いのすれ違いが、鮮明になっていった。
 5回目の接触となる握手は本部施設内の庭が舞台である。貞本版の風景は、4巻くらいまでは雑然とした印象があり、人物を浮き上がらせるために輪郭の周囲を白くする処置がとられることが多い。人物と景色の線の太さを使い分けることで、背景から浮かび上がる・あるいは埋もれるといった描き分けが可能なのだが、貞本版はどちらも同じ質の線で描かれいてる。基本的に強弱があり、筆ほどではないが柔らかい印象のある描線なので、人物や山・草木といった自然物の描写に適しているが、同じ線で建物も描かれているから尖った印象が少ない(建築物の絵が際立って目立っていない)。貞本版では、あらゆるものが等価値に置かれた上で描写されている。これはエヴァの世界観を考慮すれば当然の選択かもしれないが、偶然だとしても、描線は作品の世界観を根底で支えている。図5は極端な例だが、そうしないと人物が景色の中に埋没してしまうばかりになってしまいかねなかった。だが、連載を重ねるうちに、輪郭周辺の白さの面積は減っていき、融合していく様が見て取れる。
図5 2巻18頁
8巻124頁
 8巻124頁は、実は4巻143頁ですでに描かれていた舞台である。「瞬間、心重ねて」に向け、一糸乱れぬ連携戦闘の訓練のためにアスカとシンジは奮闘するものの二人の息はなかなか合わず、挙句ミサトに煽られて部屋を飛び出してしまう。アニメでは屋上だったが、貞本版は本部の庭という独自の舞台を用意し、結果的にアスカとシンジ・レイとシンジの関係の違いがわかる象徴的な場所となった。
4巻143頁
 4巻の例では、書き込みが多く陰影がはっきりと描かれている。背景は背景、人物は人物として描き分けられている。また人物の心理も台詞に負っている。これはアニメの台本をもとにネームが作られているためだろうか。つまり会話が背景によって一層際立つにまで至っていないのである。一方8巻の例は、まず背景からして洗練されていることがわかる。書き込みを減らしながらも舞台にあるものを生かした演出が施されているのだ。水に手をつけて過去のシンジとの触れ合いを思い出すレイ、手から伝わるものがこの場所で会話が行われることによって際立った。水面に陽光が映えている雰囲気も人物の背景に薄いトーンを貼ることで会話中に盛り込まれている、127頁5コマ目ではそのきらめきがレイの心象風景と重なった錯覚を読者に与えてもいる。「序」で引用したインタビューで読みやすさと背景の処理の仕方の間でゆれていた作者が得たひとつの答えかもしれない。
8巻127頁4〜6コマ目
 この舞台のアスカとレイを比べた時の違いは、もちろん二人の性格の差もあるわけだが、極めてわかりやすいのが集中線の使い方である。自分を見て!と強く訴え続けるアスカの描写には、集中線が多用される傾向がある。彼女の性格を演出する上で必然的だろう。対するレイには、集中線はあまり用いられない。シンジに文句を大声でぶつけるアスカを囲む集中線は、声の迫力と同時に、彼女の自意識の表れとも読み取ることが出来る。
 さて、ここのレイに用いられた線は、レイの横顔、シンジに向かっていくような煽りがつけられた流線である。過去の4度ともにシンジがレイに向かっていく状況だったことを考え合わせれば、レイの積極性がより意識される表現となっている。しかも背景に水のある雰囲気を漂わせているのも象徴的だろう。後にダミーシステムで描かれた水槽の中を漂う大量の「レイ」、LCLで満たされたエントリープラグの中、レイの涙、サルベージされたシンジの心象風景としての海の中など、水を想起させる設定や場面は多く取り入れられているが、ここでは、レイとシンジの会話の前にミサトの心象が描かれるのも忘れてはならない。南極のセカンドインパクト、生き残って海面を漂うミサト、そして加持と濃密に過ごした数年間は、海の色の連想をそのままにした背景トーンである。幸せに「浸る」というミサトのモノローグもそれらの影響だろう。
 幸せを水にたとえれば、すなわち幸せな気分とは水の中に浸ることと考えると、アニメを想起する方もいるだろう。人類補完計画という設定について語れる力は私にないが、レイの「碇くんとひとつになりたい」という感情が典型的な溶け合う感覚を、貞本版は「握手」という手のひらの記憶を作り上げることで果たしたといえる。
8巻128頁
 庭の二人は、後にリツコに目撃されていたことが明かされる、8巻169頁「きのうシンジ君と仲良く歩いている所を見たわよ」。シンジを通して人間の温かい心を学んでいたレイだったが、リツコとの会話でレイは負の感情を学ぶことになってしまう。人間として成長する、という点では避けて通れないわけだが、シンジには受け入れられないという予感・ゲンドウの元に戻らざるを得ない最期を思うと、個人的に哀しい場面だと思っている。
 リツコから注射されるレイが「う…」とうめくのも彼女の成長を端的に表していよう。4では火傷にうろたえなかった彼女が、ここではいつもされているはずの注射を痛いと感じる。人形としての自分を拒絶する感情でもあろう。そして、激高したリツコに首を絞められる場面に至ると、「握手」と「首絞め」という似たような2つの接触がもたらす結果の天地の差に改めて気付かされる。レイは、人を想うということが他人を排除する・したいという憎しみを生むことを知ってしまう。これらの描写を読み進めた読者は、シンジが誰を想っているのかを察した時のレイの無表情に何を思うだろうか。9巻133頁である。
9巻133頁
 精神汚染で入院したアスカの容態をシンジが気に掛ける場面である。セリフはアニメを下敷きにしながら、感情を表現する場面で貞本版はセリフを排していく。背景と人物を一体化させ、フキダシの代わりに四角く囲まれたモノローグが前面に出てくることになる。いや、貞本版はこの言葉さえ背景と一体化させようとする。当初太い書体だったモノローグは2巻半ばから内心のフキダシ内の文字と同じ細さになった。モノローグが心理描写であることを通常のセリフの書体よりも細くすることで統一させる。そして、ナレーション色の強さも薄れていく。では、この頁のシンジのフキダシ「どうして」とモノローグ「どうして」の違いは何か。
 フキダシはマンガのお約束として記号的解釈が出来るし、セリフ表現の一例としても説明できる。登場人物と一体化しているのがフキダシだ。だから人物の一部という側面が強い。だがモノローグはその影響下にない。客観的な言葉として読者の前に現れ、人物とは乖離した存在として描かれることもある。シンジのモノローグは、窓からの光、ベッドのアスカ、脇に立つシンジとそれぞれ並列に描写された結果、それを見ていたレイの心理に直接語りかけ得る言葉にもなった。フキダシのままならば、レイがシンジの気持ちを察したという印象は薄れ、逆にシンジのアスカを慮る心が強調されたことだろう。
 アスカの病室から離れたレイは、カヲルと出会うことになる。子猫の首を絞めたカヲルとシンジに握手をしたレイ。「あなたと私はよく似ているかもしれないけど 同じではないわ」というレイのセリフ。二人は、シンジにどんな最期を求めたか――シンジがアスカに求めるものは、握手か首絞めか――結末に向けた助走期間はすでに終わった。あとは貞本義行の筆を待つばかりである。

 連載はまだ続いている。どのようなラストが読者の前に現れるかはまだわからない。11巻終了時点で物語は佳境に入り、これから破滅と絶望が描かれていくことになるだろう。貞本版は、その先にどんな背景を描いてくれるだろうか。フキダシも擬音もない、緻密な描写に支えられたシンジやアスカたちの、なによりもレイの姿をしっかりと見届けたい。


引用・参考
貞本義行新世紀エヴァンゲリオン」1巻〜11巻 角川コミックス・エース 角川書店
DVD「新世紀エヴァンゲリオン Volume1〜7」GAINAX キングレコード
DVD「新世紀エヴァンゲリオン 劇場版」GAINAX キングレコード
DVD「涼宮ハルヒの憂鬱 6」京都アニメーション 角川書店
DVD「リンダリンダリンダビターズ・エンド バップ
「季刊コミッカーズ 1999年秋号」美術出版社

※本稿は、2008年2月開催のコミティアに頒布する同人誌のために書き下ろしたものである。14巻をもって完結した今、シンジがラストでアスカの手を握った場面がとても感慨深い。