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 いまだにいるんだこんなバカhttp://comitsu.blog47.fc2.com/blog-entry-37.html
 2chのAAでも貼って「はいはいレビューレビュー」とおしまいにしてもいいくらいどうでもいい文章だけど、こういうのはプロがきちんと叱ってほしいね。まあ正直ほっといても消えるんだろうけど、ネットは怖いな。どんな文章も誰かに読まれる可能性があるんだから。だからこそ謙虚さ慎重さが必要なんだけど、今回はそんなもん打っ棄っおう。というわけで、こんな人には批評・レビューをしてほしくない話。
 たいして長い文章でないのに、長文とかロングレビューとか言う人。簡潔に言えば、せめて私くらい書け。長きゃいいってもんでもないので、そういう冠は外したほうがいい。ほんとにこりゃ長いよと自信があるものくらいにしとけ。たくさん書いたなーと思っても読み返すのに数分もかからないなんてざら。誤字脱字のチェックもおろそかになりがち。推敲もままならないというか、自分に満足しているから書き直しとかも短文より怠りがち。あ、全部自分のことじゃないか……。ほんと、あの程度の長さで誤字脱字あるとげんなりするよな、まあネット上では文意を察してくれる人が多いし、自分もそういうの見つけても、ここは本当はこう入力したかったんだなと思って意味を読み取るわけで。
 リアリティを求めながらリアリティがなんなのか説明できない人。漫画に限らないけど作り物という前提の中でリアリティを表現するってどえらい作業なのね。だからってわけじゃないけど、一瞬でもそういうものを体験できたときの感動は印象に残る。でもリアリティって何だろうかと考えると、難しい。言葉にするのも難しい。もどかしさもある。ドキュメンタリー物を観た読んだ人が、実はこれ嘘なんだよと作り手から事実を聞かされても、受け手が鑑賞中に体験した感動は本物だ。だから実話かどうかなんてことは作品の評価とは全く関係ない。リアルなんてもんも、要は集中して読んだか否かの差に還元できる。感情移入を重視する人もいるし、作品の世界観を大切にする人もいる。集中できなかったのは内容がつまらなかったんじゃなくて、自分がつまんない人だから。という気持ちで作品に接して批評すべき。ホントのリアルが欲しければ自分で体験しろよ。
 筋違いのたとえ話にやっきになる人。たとえ話のためのたとえ話みたいな。実録物のたとえなら、実録物の作品を例にすればわかりやすいっしょ。ニュース報道でもいいし。でも全然関係ないものを取り出してきて、本人は分かりやすいつもりなんだろうけど、いや元々理解を深めてもらうためのたとえのはずが、どんどん錯綜していくのね。そんなのいいから本題を進めなよという突っ込みも予測できず、泥沼へ。結果、本文の半分とか3分の1とかがそれに費やされてしまう。要約されると、それらはさくっと削除されるから、結局意味不明のままで、後付けで解説を加える羽目になる。哀れ。自戒しないと。
 少年漫画の源流を全てドラゴンボールに求めてしまう人。それ以前の漫画は無視かよ。だからよく知りもしないのに漫画の歴史を語るなっていうこと。これも自戒しないと。
 作者について詳しく知らないことを理由に自分の無能を押し隠す人。まあ私もやるんだけどね、これ。自分への批判をかわす切り札の一つなんだよね。たとえば、吾妻ひでお失踪日記」のレビューで「吾妻ひでおさんに詳しいわけでも特に好意的でもない人」という建前でもって、自分のレビューも容認させようという目論見。これがまあ、とんでもない勘違いであるのは言うまでもなく、だって現に吾妻ひでおについて詳しく知らない私が、これ傑作とか言っているのはどう説明するんだろ(しかも22万部売れた。吾妻作品っていつもそんくらい売れるの?)。「特に思い入れがあるわけではない方のこの体験談を「笑える・興味深い」というレベルまでに感じない人」がつまらないと判断したとして、それは自分の読みの甘さに原因があるのではないかと顧慮しない無神経ぶりがむかつく。作品の批判の前にまず自分の読解力を批判しろ。これも自戒しないとな、こわやこわや。
 レビューも作品であることを自覚していない人。自戒しなきゃ自戒しなきゃ。

 さて、ドキュメンタリー物といえば、下山事件っていうのがあって、1949年、歴史の教科書にも載ってるかもしんないくらいの事件だけど、この事件の取材に関わった人たちは、相次いで本を出している。同じ事件も取材する人によって本の内容が違ってくる。そこで書かれた内容は事実だとしても、結論は本によってさまざまだ。2002年に諸永裕司が「葬られた夏―追跡・下山事件」を上梓。2004年には森達也が「下山事件(シモヤマ・ケース)」を、2005年は柴田哲孝が「下山事件―最後の証言」をそれぞれ発表している。この3冊は、同じ取材の元から生まれたものである。もとは映画にするつもりだった森と記者として協力した諸永が取材側で、柴田が取材される側と立場に差はあれど、それぞれに結論の異なる本を出した、内容の趣向も違う。この意味は何だろうか。宿題。