映画「ソラニン」感想

映画「ソラニン」感想
 さて、マンガ原作映画ということで、浅野いにお原作、三木孝浩監督、映画「ソラニン」の感想。

監督:三木孝浩 脚本:高橋泉 音楽:ent
音楽プロデューサー:安井輝 撮影:近藤龍人 照明:藤井勇
録音:松本昇和 編集:上野聡一 美術:磯田典宏 衣装:荒木里江
主題歌:ASIAN KUNG-FU GENERATIONムスタング
主演:宮崎あおい 高良健吾 桐谷健太 近藤洋一サンボマスター) 伊藤歩 ARATA 永山絢斗 岩田さゆり 美保純 財津和夫

 今年もっとも楽しみにしていた一本だけに、かなり期待して鑑賞に望んだわけだが、その前に原作「ソラニン」との個人的な距離感に触れておきたい。
 というのも、浅野いにおという作家は正直好きにはなれないけれども、どこか無視できない存在感が常にあって、「素晴らしい世界」から「おやすみプンプン」まで、断続的ではあるが、定点観測していた経緯がある。もちろん作家として発表した作品はまだ数が少なく、現在連載中の「おやすみプンプン」の私的な評価は保留せざるを得ない(主人公の特異な造形はキャラ論について考える上でとても面白いんだけれど、では物語はどうよ?と訊かれると、うーんと悪い印象で唸ってしまう)。それでも「ソラニン」は、浅野いにおの今後を語る上で欠かせない作品であることは間違いないと思っている。
 というのも、「ソラニン」以前の浅野作品には、世の中に多くいる、つまらなく平凡で退屈な日々を送っている私たちを斜に構えて小バカにした印象が劇中のどこかにいつも潜んでいた、否、隠しもせずに作品の主題として訴えていた。それが若い、ってことだと言われればそれまでだけれども、「ソラニン」は、そんな若者の根拠のない万能感を、平凡さによって打ち砕いてしまう物語だと解釈している。生きていく上で積もっていく世の中の毒素・ソラニンという「現実」が人生を退屈さに封じ込めてしまう。映画は、そんな私の作品への思いを損なわずに、淡々と原作をなぞっていく。長い原作のダイジェスト版に堕してしまいがちなマンガ原作映画の中で、映画「ソラニン」は、原作好きである私をそれなりに満足させてくれた一作である。
 というわけで、映画の大まかな流れは原作どおりであるが、原作と大きく異なる点は、なんといっても芽衣子のライブシーンがきっちりと(大きな不満もありつつ)描かれていることだ。演じる宮崎あおいの歌唱力やいかにって感じだろうが、その前にじっくりと映画の感想を述べていこう。
 冒頭から芽衣子(宮崎あおい)の落ち着いたナレーションが挟まれる。種田(高良健吾)との同棲生活も倦怠気味で、将来に対する漠然とした不安が、何も考えてない今時の若者ですが大人たちを馬鹿にしてます然と、仕事に臨んでいる。男性社員にちやほやされる後輩を眺める視線の空ろさや、叱っておきながら飯に誘ってくる上司の嫌らしさに対する態度は、何も積み上げてこなかった彼女の成果であるのだが、それを認めたくない・認めてしまうのは怖いとばかりに、種田とだらだらとした日々を送っている。種田は種田で先の見えないフリーターであり、二人が今後どういう形を目指しているのかも判然としていない。まだどこかに輝かしい未来が待っているのではないか、そんなこと絶対にないってわかっていても、なんとなく認めたくなくて、生きている。スクリーンから響く芽衣子の声は、そんな日々を乗り越えてきた果ての声であるのだが、序盤はわからないままだ。
 そういうわけだがら、映画は芽衣子を視点の中心に据えて物語を駆動していく。そして、大学時代からの仲間たちがゆるやかに画面の中に入ってきて、彼女を取り巻く環境が形を成していった。親友のアイ(伊藤歩)は芽衣子の良き相談相手であり、靴屋の店員をしながら冷静に周囲の人々を観ている頼れる存在だ。加藤(近藤洋一)はデブとバカにされる容貌だけれども、種田を信じている音楽に熱心な留年生活を送り、ビリー(桐谷健太)は実家の薬屋を継ぎながら卒業後も種田・加藤と定期的にスタジオで音を鳴らしている。それぞれが大学生活という楽しかった頃の思い出・モラトリアムを終え、社会に出ざるを得ない現実に直面し、一人ひとりもがいていた。キャラクターはそれぞれの役目を与えられ、きっちりと機能しているのは原作という骨格がしっかりしているからだろう。迷いながらどう生きていくか社会と折り合えずにいる芽衣子、中途半端にバンド活動を続けている種田、家業という現実をいち早く受け入れたビリー、未だに大学生活に固執している加藤、そして彼らを見守るアイ。
 たとえば加藤のエピソードがわかりやすい。大学六年生の彼は軽音部のほとんどOBだが、ふらりと部に入ってきた後輩の女の子・鮎川(岩田さゆり)に妙に懐かれると、帰りを背負って送ることにまでなる。酔った鮎川は加藤にお礼とばかり頬にキスをするわけだが、彼女を見送った直後にアイから電話が入り、加藤は疲れた身体を休める暇もなく走ってアイの元に帰るのだ。というわけで、アイと加藤が付き合っている、という漠然としていた関係が明確になる、アイはふらふらと人生をさ迷っている加藤の操縦役でもあった。原作を知っていた私にはわかっていた二人の関係だが、くどい説明を省き、さらっと人間関係を明らかにしていく物語に好感を持っているので、こうした演出は嬉しい。あるいは会社を辞めた芽衣子がふらっとビリーの薬屋を訪れ、人生って何だろう的な話をするシーンのビリーの態度がなんとなく芽衣子に好意を抱いているっぽいとちょっと感じさせる演出、それに全く気付かない芽衣子ともども役者の力もあるんだろうが、とにかく説明がさっぱりしていて、映画の行間が観るものを惹きつけてくれる。マンガと違って時間という制約がある映画だと、淡々とした展開は冗長になりやすいのだが、少なくとも前半は、そんなこともなく、加藤やビリーの振る舞いに笑ったり、種田の苦悩に共感したり、芽衣子と種田のいちゃつきにニヤニヤしたり、飽きることはなかった。
 もちろん、そんな展開は原作同様に唐突に破綻してしまう。
 種田の死を物語的にどう評価するかはさておき、ここで映画はたびたびあった芽衣子のナレーションをぷつっと切る。どこかに種田がいた芽衣子の周囲から、さくっと、彼の存在感が消えてしまう。原作どおりといえばそうなんだけど、実はここで物語には大きなうねりが起きていた。種田の回想シーンが時折挟まれるようになるのだ。つまり、後半は種田の無言のナレーションが物語を包み込んでいくのである。
 さてしかし、前半のここまででも不満がないわけではない。プロとしてのバンド活動を目指す決意をした種田は、加藤・ビリーとともに制作した曲(そのうちのひとつが種田が作った「ソラニン」なわけだが)を音楽会社に送りまくるものの、どれも不発。そんな中、声を掛けてくれた大手の音楽会社に勇んで行くも、新人開発部の冴木(ARATA)はデビュー云々といった話ではなく、某アイドルのバックバンドをやらないかという話だった。この辺はマンガの感想(http://www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa/kansou/solanin.html)と重なるんだけど、理想と現実の象徴である花火の落下傘(あるいは映画も冒頭で出てきた赤い風船)とお金の問題(中身の薄い財布・減り続ける貯金残高)が描写されていないのだ。花火をやるシーンも貯金通帳を見てがっくりするシーンもありながら、二つを比べて、さあどうしようという場面がないものだから、いくら会社辞めても貯金で一年は何とかやっていけるという台詞があっても、なんというか、生活に必要なお金に対する危機感が薄いのである、原作に比べて圧倒的に。種田も曲作りに専念するためにバイトを辞めると、いよいよお金大丈夫かな、と観ているこっちが心配になってしまうくらい、結構能天気なのだ、特に芽衣子が。種田はその問題をしっかり意識していたからこそ、辞めたバイトをなんとか再開するんだけれども、映画はシビアになりかねない経済面を曖昧にしてしまっている。
 そのために物語は、現実に横たわる生活費の問題を、種田の死という現実にすり替え、喪失感に苦悩する芽衣子の姿に焦点を当てる。だからといって芽衣子が部屋に閉じこもってしまうような原作の改悪をするわけではなく、花屋でバイトを始め、そこで18歳のキラキラした男の子・大橋(永山絢斗)も登場し、次の展開への助走を淡々と始める。種田のギターを持つのだ。
 原作でもっとも胸が熱くなった場面だった。理由は説明できない。芽衣子が種田の代わりを務められるわけがないし、簡単に弾けて歌えるほど音楽は優しくしてくれないし、ここから彼女がプロデビューなんかする展開だったら作品の主題が台無しだし、そんな展開も期待していないのだが、とにかく琴線に触れたのである。だが、だがだがだが、映画はこの場面をカットしやがったのだ……この映画の中で二つ大きな不満があるんだけど、そのうちの一つがこれだ。なんでかなー。種田がはじめてアンプいじって音を出すシーンを種田と重ねるだけで事足りると判断したのだろうか。でも、この場面が映像化されていないせいか、映画は芽衣子は種田の代わりって印象が強くなっているのだ。加藤は、鮎川にあの曲よかったですよと言われると、あれを歌える奴はもういないと呟くシーンがあるものだから、余計にそうした印象は強くなるだろう。でもちょっと違うんだと私は訴えたい。芽衣子は種田の代わりじゃないのだ、芽衣子は芽衣子なんである。種田が愛した芽衣子なんである、ビリーに大切に思われる芽衣子なんである。
 でもやっぱり、映像の力はいい。宮崎あおいが音楽に熱中していく姿は、これまで観たどの映画出演作よりも輝いているし、かわいいし、かわいいし、かわいいし、でもまあ私は伊藤歩のほうが好きだけど、でもかわいいんである。その彼女は汗びっしょりでギターを抱えて、巡ってきたライブの機会に全力で突っ走っていくのだ。
 で、ここで最大の不満点が露になる。ライブシーンは、宮崎あおいのたどたどしいギターから始まる。たいして盛り上がるわけでもない会場内。冴木が会場にやってきて、演奏もラストに近いことが知らされる(彼が来たことで、ひょっとした芽衣子たちのバンドは音楽で飯食ってけるのか?と一瞬でも思わせたかったのかな)。さあ、宮崎あおいの歌声やいかに……ここは「ソラニン」という詩の聞かせどころでもある。あるはずなのに、いや原作どおりなんだけど、こんなノリに乗った場面で回想シーン入れなくてもいいじゃんか!!!!空気読めよ!!!彼女の声は背景となり、種田と芽衣子のはじまりが映像で流れる。もちろん、前半の歌詞は劇中で種田が歌っている場面があるとはいえ、俺は高良健吾の歌声を聴きに来たんじゃねーんだよー!!!(フィッシュストーリーで十分聞いたよ……ギターもBANDAGEで観たよ……)
 でも、歌の後半は回想シーンを挟まずにしっかりと宮崎あおいが魅せてくれた。下手とか上手いとかいう話はどうでもいいのだ、昔の自分と決別する、種田が卒業ライブで吼えたように、これが芽衣子にとっての決別宣言なのだから。でもさぁ、ぶっちゃけ言えば、いくら原作の浅野いにおの作詞だっていったって、曲はアジカンなんだよな、アジカンの曲になっちまっているんだよな……でも、宮崎あおい、ではなくて、芽衣子の歌声が聞けてよかった、ほんとによかったよー。感動した。
 ラストで芽衣子のナレーションが入ることで、物語は彼女に回収されて幕を閉じる。これからも続く平凡で退屈な日々も、彼女なら、楽しくやっていけるはずだ。そんな予感を抱かせてくれる、いい映画だった。