映画「モテキ」感想

映画「モテキ」感想
監督・脚本:大根仁
音楽:岩崎太整  撮影:宮本亘  照明:冨川英伸  美術:佐々木尚
製作:テレビ東京東宝
主演:森山未來 長澤まさみ 麻生久美子 仲里依紗 真木よう子 新井浩文 リリー・フランキー 金子ノブアキ 山田真歩

 彼女いない暦=年齢の30歳目前主人公・藤本幸世に突如複数の女性からメールやら電話が来る……という冒頭から4人の女性に翻弄される幸世を、さまざまな楽曲を背景に怒涛の恋愛展開で描ききった原作マンガを下敷きに、よりエンターテイメント性を重視したドラマ化が昨年だった。設定から話題性、時代性も考えても、今にぴったりのキーワード・草食系とか派遣社員とかで十二分に語れると思われる作品であるが、物語の底には、人とのコミュニケーションを求める主人公、否、求め合う登場人物たちのもがく心象風景が流れており、それは原作から映画まで一貫している点であろう。
 個人的には原作を楽しく読み、ドラマも面白く観た私にとって、映画化の話は待ってましたという大きな期待で迎えたわけで、公開初日休みが取れたのを機に、地元の初日一回目の上映をさくっと見てきた次第である。
 鑑賞後の素朴な感想としては、面白かったぜ!みんな!と言える内容だ。前半はドラマのノリそのものでひっぱる娯楽性を重視した満腹感ある笑い所があちこちにあり、それによって地ならしされた恋愛モードとなる後半の展開は、前半の余韻を生かしつつ、前半で接してきた女性たちとの交流を踏み台に、本気で好きになった女性を力技で振り向かせるという、徹底した受身思考だった草食系が肉食系に変化した瞬間を切り取った、と凡庸な説明が可能である。
 とっくに指摘されていることであるが、幸世は女性にもてないわけではない。墨田を演じたリリー・フランキーの言を借りるに、もてるとはいろんな女性とやりまくっている状態であり(幸世の親友である島田がまさにそうなわけだ)、いろんな女性からアプローチを受けつつも、それを掬い上げることが出来ずに中途半端で、やれそうでやれない幸世の立場はとても辛いものだ。女性の知り合いがそもそも複数いたからこそ、彼の元に多くの連絡が押し寄せたわけであるからして。
 というわけで、映画では、幸世が就職すること・しかもナタリーという実在する会社を舞台にすることで、より一層幸世が好む世界(音楽、マンガとか)に背景を特化し、さらに女性と知り合う機会が結構多い状態を一気に増やしたのである。
 それにより、派遣社員というどっちつかずのフラフラ状態だった幸世が、図らずも地に足を付けてしまう。しかも凡々サラリーマンとは遠い、メディアに関わる仕事なのだ。傍から見れば、華やかな世界この上ない。しかも趣味にしてる世界だし。うらやましいことこの上ない。下っ端ライターとして取材に駆け回る幸世の姿は、映画の中では叱られ、嘲られることもあったし、意外と年収低いが、鑑賞中の私には、でも好きなことが仕事に出来ていいじゃねーかと言う嫉妬もあったのは事実である。ツイッターを物語の仕掛けとすることで、ネットに親和性の高い作品に一見思えるけれども、面白く観つつ、私はだまされないぞと心の片隅で思い続けていた。
 ツイッターのやり取りはフォロワーに筒抜けだ。誰にフォローされているのか、誰にツイートしただの誰にリプライされたとか。冒頭、幸世は実名で呟き続けいることが明かされ、そのツイート数とフォロワーの少なさも彼のキモさの設定のひとつとなっていた。映画ではさらに、DMのやり取りまで……という展開により、幸世と長澤まさみ演じるみゆきとの交流が社内に知れ渡る仕掛けが施されているわけだが、職を得て新たな交流も得た彼は、その後、多くのフォロワーが増えたのは間違いない。ドラマ版のメールの頻繁なやり取りからツイッターに移行したという面でも、映画はドラマの内容をリセットしたのだ。これまで彼と出会ってきた女性とのメールによる交流を物語的に遮断したのである。土井亜紀との最初がメールアドレスの交換からだったように、映画はツイッターでフォローし合うという形に変わった。
 でも、本質は変わらない。小手先の変化に堕することなく、物語は底に流れる人と人とのコミュニケーションを摩擦熱に変えていった。
 幸世に関わる4人(みゆき、るみこ、愛、唐木)の女性たちは、原作・ドラマを踏まえつつも、林田を除き、土居、いつか、夏樹と3人に翻弄され続けたドラマ版展開に対し、映画は、幸世が一人の女性に向かっていくためのものとして機能している。この潔さは原作に通じていよう。オリジナル色が強くなったドラマ版の最終盤の展開とは異なり、映画の終盤は原作どおりではないけど、なんか原作どおりと思える展開になっている。そして、わかりやすい演出によって、彼女たちと幸世の違い・共通点を浮き彫りにした。
 幸世が受身なのは変わらない。親しくなってようやく自分から誘うのは多少の進化と言えなくもないが、映画では、長澤演じるみゆきと麻生久美子演じるるみこ2人の女性が好対照をなし、幸世の性格の本質と変化を描写した。
 まず、基本的に彼女たちは振り返らない。仲里依紗が演じた愛とのやり取りにそれが凝縮されている。ホステスだかをやってるっぽい彼女とは、墨田に連れられていった酒場で出会う。ぐでんぐでんに酔っ払った幸世は、翌朝、彼女と一緒に寝ていた……そこからのオチは映画未見の方に配慮するけど、たくましい彼女は、幸代と別れたあと、一切振り返ることなく、大きな背中を幸代に見せ付けたまま画面から去っていく。とても象徴的だ。結婚を意識する年齢とそこに圧し掛かる年収という現実にも触れつつ、彼女は幸世に現実的な生き方・これまで音楽に逃げ続けていた姿を遠ざけさせた。
 ドラマ版で顕著だったイヤホンをして音楽を聴く彼の姿は、なんでも自己完結して卑屈になっていく彼の象徴だった。外界を遮断して自分の好きな世界に閉じこもる。だからこそドラマ版のイヤホンをとって自転車で疾走するラストシーンが生きたわけであるが、映画はそこから一歩踏み出した。自己完結して閉じこもる幸世の印象が希薄なのである。もちろん、その好きな音楽の世界を取材を通して触れるせいもあろう、映画は、取材するシーンそのものがライブ会場だったりするせいか、音楽が溢れている。ドラマ版以上に楽曲の力を借りて、幸世は、みゆきとるみこの間で身悶えることになる。
 みゆきは、原作のいつかと土井亜紀を足したようなヒロインに相応しい(森山未來との共演は、当然「世界の中心で愛を叫ぶ」を思い出させる)美しさと知識とフレンドリーさを備えている。一方のるみこは、振り返る女である。彼女の告白シーン、一夜明けの慌てっぷり、想いの重さ。特に想いに関しては、かつて夏樹が幸世の恋情を重いと表現したように、実際に重圧となろう。そこには、愛との交流で意識させられた結婚が背後に影響しているだろう。結婚したいのか恋愛したいのかと尋ねられるシーンもある。だが、幸代に押し寄せるるみこの重さは、そのまま、みゆきに押し寄せる幸世の重さとなって展開されたことで、幸世よ、てめぇもるみこと同じじゃないかと鑑賞者に強く意識させた。
 上手くいかないのも必然。必定の流れ。一体、彼女たちは幸世をどう思っているのか……原作やドラマで描写された主人公以外のナレーションが、映画では一切排された。彼女たちの振る舞いの真意は、BGMや演技・表情で判断することになる。幸世のこと、ホントはどう思っているの?という問いかけは、かつて幸世がさんざん見せた、俺のことどう思っているの?という受身体質となんら変わりはしない。一歩進むには、相手がどう思っているかではない、お前がどう思っているんかなんだよ!!! ということを見事に果たした幸世。他人が自分のことをどう思っているのか、考えるのは怖いかもしれない、本心を知ればショックかもしれない、それは幸代だけではない。だから、みゆきは逃げたし、取材をほっぽった幸世を笑顔で唐木は、走れ!と後押しした。
 走って、走って、走り去る! 月光と太陽を駆け抜ける!
 気持ちよくだまされた。やっぱり、長澤まさみの笑顔に勝るものはない(そこかよ)。