映画「太陽」感想

映画「太陽」感想
監督・撮影:アレクサンドル・ソクーロフ
脚本:ユーリー・アラーボフ デザイナー:ユーリ・クペール 音楽:アンドレイ・シグレ
主演:イッセー尾形/ロバート・ドーソン 桃井かおり 佐野史郎 つじしんめい

 ソクーロフは知らないし劇場公開が危ぶまれていたという経緯もよく知らない、そもそもなんでこれが日本映画じゃないだろうというようなのんきな印象しかなかった。きっと重苦しい展開に終始した政治ドラマなんだろうといった程度の、浅はかな認識しか持ち合わせていない私だったが、これ、笑っていいのかな? という戸惑いを感じた自分がいた。やっぱり昭和天皇に対して何かしらの意識があるからなんだろうか。でも場内のそちこちで笑い声が漏れているし、私も噴き出してしまうものは抑えられないし。笑った後に来る複雑な感情ってなんだろう。
 太平洋戦争終結直前。天皇イッセー尾形)は朝食をほとんど摂ることなく政務に付く。侍従長佐野史郎)が「お上……」と恭しく日程を告げる。冒頭ですでに現人神という立場への不満が天皇の言動からうかがえた。もうじき戦争は終わる。終わったら自分はどうなるんだろう。天皇「私の身体も同じだ、君のもね」、侍従長「それは存知かねます」。
 こんな重い雰囲気がずっと続くんかなーと思っていたら、次の着替えの場面でなんか違うかもと思えた。丁寧に慎重に天皇の着替えを補佐する老僕(つじしんめい)がボタンをはめる場面で天皇の視点に画面が切り替わる。必死にボタンをはめる老人の禿げた頭がアップになる、汗。「よし……よし……」とひとりごちる老人の不器用な手付き。ここでも軽口めいたことを天皇は言う(なに言ってたか忘れちゃった……)。その前の侍従長とのやりとりでも私は誰にも愛されていないというようなことを言うんだよな。私を愛しているのは皇后と皇太子しかいないって。最初は随分つまらんことを言うなって感じたけど、当時は神だったんだよな、だから国民に愛されるっていうんじゃなくて、敬われている奉られているっていう扱いだったんだな。侍従長も返答に困っている様子があった。
 御前会議の後に研究室に向かう。平家ガニの観察だ。博識が披瀝される、同席している研究員が天皇の言葉を筆記する。会議の場面もそうだったけど、筆記の音がBGMみたいになってて面白かった。で、研究員はうつらうつらしてくると音も止む。「思い出した」と天皇は手を叩いて研究員に筆記の続きを命じる。老僕との場面の雰囲気がここで想起されると、なんかおかしみみたいなものがこみ上げてくる。でも笑ったちゃいけないような気分。
 午睡の場面になると、天皇が見たらしい夢がきれいに映される。蛾だかエイのようなものが鳥みたく飛んでて(パンフで確認したら羽の生えた魚らしい)、爆弾あるいは焼夷弾を落としているんだがそれに見えない(これも後で確認したら小魚らしい)。焦土と化す街。この夢がどうやら終戦の暗示らしい。それから手紙を書く場面。ここが物語上の大きな鍵となっている。皇太子への手紙を書いたり和歌を詠んだり。皇后や皇太子の写真を眺めながら、家族を愛でている天皇の姿が映される。それらの写真のほかに取り出したのがハリウッドの映画スターのブロマイドだった。チャップリンや女優、それらへも同様の親しみを抱いているらしい。女優の写真を見てなんだかうっとりしている天皇の姿は滑稽だった。やっぱこれ笑っていいんじゃね? ……だめなのかな、と自問していた。最後の写真はヒトラーだった。
 その後、場面にはいつの間にかGHQがいる。資料映像のような玉音放送を聞く人々とか、厚木基地に降り立つマッカーサーとか、そういう記号的な場面は一切なかった。マッカーサー(ロバート・ドーソン)との会談で、常に傍らに誰かがいた天皇が一人にさせられる。帽子を取って誰かに渡そうとする姿がなんか痛々しい。そわそわしてるというか、挙動不審というか、口パクパクさせてなんか言いたそうで言わない。このあたりが多分中盤だと思うんだが、この次の辺から雰囲気が劇的に変わる。徐々に積み上げていたおかしみが、一気に噴出してくる。マッカーサーや米兵に人として見られることに喜んでいるような感じだ。終戦後も侍従長たちの態度は全然変わっていないからね。
 そこでチョコレートの場面だ。占領軍からの贈り物として運ばれたものだった。なんだろう、これみたいな雰囲気の中、天皇は一枚とって「チョコレートだ」「カカオだよ」と解説し、食べようと促す。慌てる侍従長は毒味しなくちゃと急いで封を解いて一口かじる。「私はあられのほうが好きです……」、ここで少し笑ったところで、老僕や他の侍従が興味を示そうとチョコレートの詰まった箱に手を伸ばそうとしたところで「はい、チョコレートおしまい」とその場を撤収させてしまう。うわ、ダメだ、こりゃコントだ、と大笑い。それまでもちょっと笑う人はいてもどちらかというとじっと凝視している風だった場内が爆笑に変わった瞬間でもある。あーもー口調が普通のイッセー尾形じゃん。天皇独特の噛み締めるような言い回しがすっと消えて流暢にというのも変か、よどみなくペラペラとまくし立てる天皇がおかしいんだ。続いて科学者を招いた場面では、絶対コントだよこれっていうドタバタっぷり。天皇天皇の席に座らせようと「お上、お上」と促そうとする侍従長、とぼけたように他の椅子に座ろうとする天皇、どこに座っていいものやらあたふたする科学者、おかしいったりゃありゃしない。前半に抱いていた笑いへ忌避ってもんが完全に消え去っていた。こんなに面白くっていいのかなーていうくらいだ。
 従軍記者たちの写真撮影の場面ではもう開き直ったかのようなおどけっぷり。天皇チャップリンみたいな扮装で現れて、記者たちから「チャーリー、チャーリー」と言われる始末。なんかすげー。記者たちの非礼を詫びる副官に「私は誰かに似ていますか?」と問うと「分かりません、私は映画を観ないので」「私も」……あれ? さっき写真見てたじゃん……嘘ついてるし。口癖だったという「あ、そう」も後半は連発しまくる。天皇は後でまた嘘をつくんだけど、とりあえずこれ以上のネタバレは避ける意味で物語の説明は省くけど、もう生き生きしてるんだよね。それまで抑圧されていた人間性が解放された喜び、私は単純に笑ったけど、逆に悲哀を感じる向きもあるに違いない(ていうかそういう感想もあった)。
 マンガにたとえるのは映画の製作した方々には失礼かもしれないけど、私にとってこの映画の昭和天皇は、最近だと「デトロイト・メタル・シティ」の主人公に似てるんだよ。本当は大人しくって純朴な青年だけど、メタルの帝王を演じなければならない、たまに本気でメタルに入れ込んじゃって暴走する。それがギャグになっていることの楽しさがあるけど、「太陽」にもそんな感じがだんだんしてきた。
 でも、こっちの半端な感情はラストにばっさりと切り捨てられる。愕然とした。ラスト直前に皇后(桃井かおり)のアップになる。まるで自分自身が睨まれているような窘められているような凄味があった。私は何を浮かれて笑ってみてたんだろうか……というような複雑な感情がよみがえった。笑いへの戸惑いを感じていたもの・笑った後の複雑な感情、これらは政治的なものとか歴史的なもの民族的なものとか個人の天皇への思いとか関係ないんだ、少なくとも私にとっては。神を演じなければならない天皇の苦悩を描いているからこそ訪れてくる感情なんだ。実はとてつもなく切ない映画なのかもしれない。