映画「歩いても歩いても」感想

映画「歩いても歩いても」感想
監督・原作・脚本・編集:是枝裕和
撮影:山崎裕  美術:磯見俊裕・三ツ松けいこ  照明:尾下栄治
録音:鶴牧裕・大竹修二  衣装:黒澤和子  音楽:ゴンチチ
主演:阿部寛 夏川結衣 YOU 高橋和也 田中祥平 野本ほたる 林凌雅 田口智也 田中啓介 工藤美友里 田村光弘 高橋義治 堀江ゆかり 寺島進 加藤治子 樹木希林 原田芳雄
配給:シネカノン

 台所で会話する母・とし子(樹木希林)と娘・ちなみ(YOU)のシーンからこの映画は始まる。手早い包丁捌きの老いた母とすでに結婚し子供もいる娘の関係が、幾年も変わらないだろう他愛ないやり取り中から浮かんでくる。ほとんど手を映し続けるカメラが時折役者の顔を捉えたからといって二人の表情が注視されるわけではない。手際のいい母が、料理が不得手そうな娘を急かしたり世話を焼いたりする。うちはファミレスの味に慣れてるから……という娘の言葉ひとつで、やっぱり料理は得意じゃなさそうだと確信する。ペタペタという足音、父・恭平(原田芳雄)が台所の二人に目をくれることなく通り過ぎていく。日課になっているらしい散歩だ。娘がついでにコンビニで牛乳買ってきて、低脂肪の、と声を掛けても無視する有様(「低脂肪牛乳」と注文をつけるだけでも、娘の食への個人的なこだわりが窺えるだろう)。母が娘の腕を軽く手の甲で叩いて曰く、コンビニの袋を提げたところを近所の人に見られるのが嫌なのよ、まだ先生と呼ばれたい、というようなことをぼそっと言う。杖を突く父は、近所のおばあさんとの挨拶を済ませると、ゆっくりと歩き始めた。続けて電車のシーンで、娘が言っていた良ちゃんと思われる男(阿部寛)が車内で子供(田中祥平)と女(夏川結衣)を傍らに、実家に泊まることを渋る会話が映される。親子だろうと思っていると、子供が「良ちゃん」と男を呼ぶ。ああ、女の連れ子か。些細な言葉の交し合いから、登場人物の関係が鮮明になっていく。
 是枝裕和監督の待望の新作「歩いても歩いても」は前作の時代劇という作られた世界とは打って変わって、「ディスタンス」「誰も知らない」のような自然な会話の積み重ねによって世界を描いていく物語である。冒頭のわずか数分のシーン、現実に有り得る言葉だけで関係性が見えてくる堅実な脚本は健在である。音楽のゴンチチも、目立たず、さりとて印象に残らないわけでもない、「誰も知らない」同様に映像を妨げず見えない背景のように映画の中に沁みこんでいる。最初のシーンだけで、映画の世界に引き込まれていった。
 この映画の紹介としては、おそらく平凡な一日とか何も事件が起きないとか、淡々とした描写の中に潜んでいる登場人物の複雑な感情を汲み取っていくことで……とか、誰もが経験するだろう家族の日常とか、そんな惹句が飛び交うかもしれないし、それらの言葉はどれも真実だろう。この映画で描かれる一日の中で、登場人物たちが何か家族の新しい一面を知って親あるいは子に感謝するとか、そのような大仰なテーマもなく、ただただ、老夫婦と子供たちの、はたまたそのまた子供たちの交流が、大きなうねりを物語にもたらすわけでもない。それでも、この映画の物語を私は素晴らしいと思う(以下おおいにネタバレ注意)。
 家族の集まりである。何故実家に子供夫婦が集まってくるのか、という動機に観客の興味を引き寄せつつ、家に向かう息子の良多がどうも失職したらしいこと・それを隠したいことがわかってくる。ちなみは、母と料理を作る最中の会話から、明るい性格だけど、割と面倒くさがり屋らしいとか、観客によって受け取り方が異なるかもしれないけど、そんな感じの性格がわかってくる。そして会話の端々に発せられる「純平」という人の名前が、どうも亡くなった人を指していることが伝わってくる。途中でファミレスに立ち寄った良多は妻・ゆかりに「だってあなた長男でしょ」みたいなことを言われるが、「違う、次男だ」と答える。「純平」は長男であり、おそらく今日は命日だから集まるのだろう。では何で死んでしまったのか。
 引退したとはいえ、医者としてのプライドと家長として威厳を保とうとする恭平とそれをたしなめるとし子は、亡き息子の思い出話を語り始める。好物であるとうもろこしの天ぷらをカリカリと頬張りつつ、医者として後を継がせたかった強い思いが込められる。兄と比べられ続けたことで父にわだかまりを抱く良多はそれが面白くない。自分以上に緊張しているはずのゆかりの気持ちにも気付かず、失職を隠して会話を続ける良多。
 家族同士の会話から、再婚の嫁を面白く思わない母の心情や、父と息子の軋轢、仲をどうにか取り持とうとする姉のさっぱりした態度(YOUはほんとに適役だよなー)などなど、引っかかっていたちょっとした仕種の原因がわかってくる展開である。起伏がないような物語の中にも、ユーモアを交えつつ、なんであんな態度をとったんだろう、という小さな疑問が出てきては後に解消され、また疑問が出てくると、繰り返されていく過程で、父と息子が同じように見栄を張っている様子や、したたかに同居を目論む姉、といった裏の感情が見え隠れしてくる。どんな感情を汲み取るかは鑑賞者による。それらは本人の置かれている立場によるかもしれない。架空の家族の一日を眺めているうちに、私たちは自分の家族や周囲の人々を想起しはじめ、まるで自分の身の上に起きたかのように物語の世界に没入していくことだろう。
 やがて何気に眺めていたテレビニュースから兄の死の原因が明らかになった。墓参りから帰ると、見知らぬ太った青年が恐縮している。この人が誰なのかはみんな知っているから誰も説明しない。ただ、息子の死の原因から、多分あの人なのだろうという想像力が刺激され、それは事実であり、彼のいたたまれなさそうな態度に理解を示さざるを得ない。やりばのない喪失感である。
 身近でありながら、家族は互いの気持ちを理解しあえない。何も起きないのは、殺伐とした会話を憎悪にまで傾かせないバランス感覚が家族のみんなに備わっているからだろう。憎しみでも恨みでもない不思議な感情は、連れ子・あつしの成長を描くことによって、ちょっとした落しどころを得ることになった。
 物語的に唯一といってもいいだろう成長をする登場人物であるあつしは、冒頭で、クラスで飼っていたウサギが死んでしまい、みんなでウサギに手紙を書こうというクラスメイトの提案がおかしいという。「いいことじゃないか」と良多は言うが、あつしは、その手紙誰が読むの? と素っ気ない。あつしのこの態度が次第に緩和されていくわけである。
 冒頭のファミレスで妻がちょっと席をはずすと、あつしと二人っきりになった良多のそわそわした様子がすぐに映される。会話に困る良多、とりあえず「学校どう?」と訊く。「普通」。いとこに当たるちなみの子供たちに会ったときも、叔父さんのことなんて呼んでるのと訊かれて、「普通だよ」と答える。「普通に、お父さん、だよ」と。わがままに振舞いたい気分と慮りたい気分が絡まっている様子は、良多や恭平より目立たないけれども、亡くなった純平をいつまでも慈しむとし子の姿は彼の心を変化させていった。お墓に水を掛けるシーンで、暑いねー涼しいだろうと語りかけるおばあさんの姿をなんとも言い難い表情で眺めるあつしだが、彼が将来の夢を恭平に問われたときに答えた職業こそ、小さい頃に亡くなったためにほとんど覚えていない実父に対して自分も何かしら語りかけていたのではないか。
 ちなみの子供らが、無邪気にここに何を置くと模様替えを空想している。黙って見つめているあつしは、ここにピアノを置く、という言葉にかすかに反応した。ピアノを見つけた彼は、そっと鍵盤に指を乗せる。ポーン、ポーンという音が家の中に静かに響き渡った。医者にならないか、と亡き息子の代わりを新しい孫に求める恭平の表情、かつての同僚と再就職について携帯で話している良多の表情。そして、あつしの表情。前半のこのシーンは、ラスト直前で海岸を散歩する三人の表情の変化につながっていると思う。その海岸は、おそらく純平が亡くなったところである。砂浜を駆けるあつし。冒頭の散歩では眺めるだけだった恭平だったが、あつしを通して息子への贖罪(医者として息子を救えなかった)の気持ちに彼なりの答え方を見つけたのかもしれない。死んでもなお比較され続ける自分こそが兄にこだわっていたのかもしれない。義父との新しい生活に気持ちを改めたのかもしれない。全ては鑑賞者一人ひとりの感情に任されているけれども、海を眺める恭平と良多の二人の姿からは、ひとつのわだかまりが解けたことを確かに感じさせた。
 家の中に響き渡る家族の世間話に興じる声は、ゴンチチの音楽のように、どこか心地よかった。