映画「シークレット・サンシャイン」感想

映画「シークレット・サンシャイン」感想
監督・脚本:イ・チャンドン  原作:イ・チョンジュン
撮影監督:チョ・ヨンギュ  音楽:クリスチャン・バッソ  美術:シン・ジョムヒ
主演:チョン・ドヨン ソン・ガンホ/チョ・ヨンジン キム・ヨンジェ ソン・ジョンヨプ ソン・ミリム キム・ミヒャン イ・ユンヒ キム・ジョンス キム・ミギョン オ・マンソク

 イ・チャンドン監督の最新作をようやく観ることができた。「オアシス」の衝撃は今も忘れない、観客を(というか私を)不愉快にさせるような傍若無人で思慮の足りない男の態度が、実は誰も色目で見ない純真さを持っていたという事実に慄然としたものだ。観客が何を思うのかということさえコントロールしてしまう力強い物語を作り上げるイ監督に、今回も期待しないわけがない。その期待は、またも複雑な感情をもって私を打ちのめした。
 韓国社会がどういうものなのかはよくは知らないけれども、それでもキリスト教信者が多いってことはちらりと耳にしたことがあった。だから、この映画の主人公シネが、悲しみの果てに入信し、やがて信仰というか神に裏切られたかのような気分を味わい、神への挑発を繰り返すような自傷とも言える行為を繰り返し続けるシーンに、監督、こんな映画作って大丈夫なの? と要らぬ心配をしてしまったわけだが、この映画は、「オアシス」同様に、私の甘い感情や浅い思索を簡単に崩し去ってしまった。

 夫を失った女性・シネが一人息子・ジュンと共に、夫の故郷である地方都市・密陽に引っ越した。道中、車が立ち往生して頼んだ修理工場から男がレッカー車を運転してやってくる。地元の自動車修理工場の社長・ジョンチャンだった。車中でシネは語る、タイトルの意味である「秘密の陽射し(シークレット・サンシャイン)」である。町の名前の意味だと夫から聞かされたシネの語りに、ジョンチャンは感心する。この時から、もうジョンチャンはシネに惹かれてたんだろうな……
 ソウルの音大出のピアノ教師として、ジョンチャンやその友人の不動産屋の世話でピアノ教室を営むシネ。やたらと世話をしたがるジョンチャンを嫌がるシネだったが、それとは無関係に彼女の挙措が町の人々の関心の的になるのは時間の問題だった。
 死別した夫がいずれ住もうと言っていたと言うこの地方都市には、さしたる明媚な景色があるわけでもなく、特別な特産があるわけでもない。都会になろうとしてなりきれない卑屈な感情が町中に巣食っているような汚さがあった。そんな町に、いくら夫が愛した町とはいえ、死後にわざわざ越してくるのか。夫へ愛情? しかし、ソウルからやってきたシネの弟は、何故姉がそこまでして夫にこだわるのかがわからない。シネは夫婦の間のことが弟にわかるわけがないと言うけれども、彼は、その夫が浮気していたと言う事実を淡々と語るのである、姉さんだって知っていたはずだ、と。
 まずはこのシーンから語りたいと思う。冒頭からシネとジュンの母子のやりとりが微笑ましく描かれている。レッカー車が来るまでの間、近くの小川の傍で息子を抱きしめてほっぺが離れないよーとじゃれ付く母、シネが帰ってくるや姿を隠し母が慌てる姿を影から見つつ、泣きまねをした母も息子がわざとそうしていることを知っており、二人が家族を一人失いながらも仲良く暮らしているらしいことが垣間見えた。ジュンは、そんな母がやや気を荒げて弟に対して夫を肯定する姿を覗き見る。それは決して強調されるような演出ではなかった。二人が話しているシーンを映しつつ、後ろの景色で自分の部屋に戻ったジュンがそっと扉を開けて二人の話に耳を傾けている様子が、ちょっとホラー映画っぽい感じで演出されているのである。ジュンのアップになって、今二人の話を聞いちゃいました、とわかりやすい演出にはしない。あれ、なんか扉開いてるし……ジュンが見てるやん……あ、扉を閉じたし……翌日、ジュンは不機嫌だった。わけがわからないシネ。強引に迎えの車に乗せて塾に送り出した。
 母と子の関係の強い絆が一瞬ほころんだ間隙を突いたかのように、ある夜、近所の仲間ともどうにか打ち解けあうことが出来て飲んだりカラオケして遅く帰宅したシネは、息子がいない自宅を目の当たりにする。また隠れているんだろうか。私の中にはニコニコと戯れていた残像が色濃いために、本当に息子がいなくなったのか、全く信じられない(今回、私は予告編も見ず、前情報を遮断して干渉に臨んでいた)。そんな焦り始めるシネの動きを止めてしまったのが一本の電話だった。……え? 誘拐されたの?
 もちろん伏線はあった。強がっているのかなんなのか、ピアノ教室だけでなく、近くの土地の投資話にまで身を乗り出し、町の有力者ともジョンチャンを通して会っていた。お金があることを喧伝するかのような振る舞いをしていたのだ。身代金目的の誘拐は自明だった。そして塾の先生の微妙な態度……まさかなぁと思いつつも、彼女は電話を取った。
 電話の声は終始聞こえない。まあ当然なんだけど…私にも安直なドラマの影響があるのかなぁ、相手の要求に反応するだけのシネの姿が映され続けるだけで、ものすごい緊張感があった。どうすればいいのかわからない。頼れる人もいない。彼女が泣き咽びながら向かった先は、ジョンチャンの修理工場だった。だが、彼は自宅でカラオケに興じていた。彼の無心に楽しんでいる姿を見た彼女は、踵を返すのである。
 シネの奔走も空しく、警察にすがったものの事件は最悪の結果に至る。犯人は顔見知りの先生……連行された彼の姿を見据えた彼女は、しかし何の声を掛けることも出来ずにただ通り過ぎただけだった。彼女の心が壊れ始めていく。
 それは夫の死からすでに始まっていたのかもしれない。そう考えれば彼女が地方都市にまでやってきた理由もなんとはなしにわかるかもしれない。息子の死は、観客にもわかる形で彼女の崩壊が描かれるきっかけになってしまった。ジョンチャンは、そんな彼女をどうすることも出来ずに見守るしかなかった。過呼吸のように時々嗚咽してしまう彼女がたどり着いたのが、宗教だった。
 キリスト教(牧師っていってたからプロテスタント系なのかな)に帰依した彼女が活動にのめりこんでいく中盤は、正直苦痛だった。神は何人もお許しになるとか愛されているとか幸福を感じるとか、「オアシス」で主人公の男の態度から受けた不快感が、この映画でも次第に募っていった。このまま信仰に身を委ねて死の悲しみを乗り越えました、ちゃんちゃん。そんなオチになるわけがない、いつか必ず彼女が気付くときが来るはずだ。引いた気分で観ていたが、不快感をカタルシスにするとでも言うのか、シネはついに息子を殺した犯人を許すことを決意するのである。
 不快感が頂点に達しようとする瞬間だった。面接に臨んだシネの前に現れたのは、罪に苛まれた姿ではなく、実に落ち着いて物静かな表情だった。あなたを許そうと思う、と語り始めたシネに、犯人は、私は拘置後まもなく同じ宗教に帰依し、神に許されました・こんな私でも神に許されたのです、今はとても穏やかな日々を送っている、というようなことを語るのである。
 これか、これが狙っていた裏切りか。犯人を許せるのはシネだけのはずだった。しかし……しかし神はすでに犯人を許したと言うのだ!
 シネの壊れた行動が周囲にも明らかになっていく。シネを慕うジョンチャンも彼女に倣って入信したけれども、彼は、友人たちからからかわれながら活動を続けていた。それでもシネの異常にはどうすべき手も見つからない。
 夜中に唐突に目が覚めたシネは咄嗟に電話を取った。身代金を要求しているだろうあのときの電話だった。もちろん幻想に過ぎない。次第に追い詰められていく彼女は、付きまとうジョンチャンとどのような関係になっていくのか。全く予想が付かない終盤の展開は神懸かったチョン・ドヨンの演技も加わって、スクリーンからみなぎってくる緊迫感に圧倒されっぱなしである。これ以上のネタバレは控える。
 ただしラストシーンにだけは触れておきたい。秘密の陽射し、ここにどんな意味があるのかを観客一人ひとりが問われるシーンである。何も見えないのか。見えるものしか信じないのか。自分と関わった人たちがちょっとずつ変わっていく。何がどう変わったのか具体的な言葉には出来なくても、私の期待通りにジョンチャンがシネの元にやってくるだけで、とてつもない平安を得られたような余韻だった。