映画「カラフル」感想

映画「カラフル」感想
 大罪を犯したとしてどこか見知らぬ駅らしいところに来た主人公の視点のみから物語は始まる。みな一様にのっぺらとしていて、ぼうっとしている。どうも自分は死んだらしい。そこに、不似合いな甲高い声を発する少年が現れた。名をプラプラと言う。彼は、現世に戻ってもう一度生きる機会を与えるための修行期間が幸運にも主人公に与えられたことを告げる。半ば強引にこの世界に舞い降りた主人公の魂は、本当は死んでしまった少年の身体の中に入り込んで、そこで自分が犯した罪が何かを思い出さなければならない羽目に至った。少年の名は小林真(まこと)、主人公は、この少年として日常を過ごしながら、プラプラのガイドに頼りつつ、自分が何者なのかを問いかけることなる。
 この映画の肝は執拗な日常描写であり、リアリティ溢れる背景であると思う。主人公は前世の記憶を全て失っており、「小林真」についての記憶もない。彼は、「真」として生きるためにプラプラから真に関する情報を教えてもらいながら、受験を控えた中学三年生として生きなければならないが、生前の「真」を知らないから、どのように振舞えば「真」らしいのかもわからない。プラプラから自殺前日に目撃した二つの情報が、彼の学校での・家族での振舞い方を決定した。ラブホテルに男と入っていく女生徒・桑原ひろかと、そこからフラメンコ教室の講師と出て来る母親である。
 携帯電話には履歴が残されていなかったが、唯一、ひろかの写真だけがあった。「真」は彼女のことが好きだったようだ。だが、家の中ではなんとも居心地が悪い。父は残業を頼まれる機会が多い会社人間、兄は勉強一筋で頭の悪い弟を軽蔑している、そんな情報も与えられると、彼はシンプルに、家族に対する無関心と拒絶を選択した。特に母親に対する彼の態度は苛烈を極めていく。一切の食事を拒否するのだ。一方、ひろかに対する態度は違った。誰も友だちがいないらしい「真」だが、プラプラに案内された所属しているという美術部の教室に入ると、クラスメイトたちの異質なものを見る嫌悪感と侮蔑に溢れた視線とは対照的に、強く干渉もせず、かといって見くだしもしない、後輩らしい男子が軽く挨拶までしてきて、どうやら校内の「真」の居場所は、ここだったようだ。絵の上手さだけで評価される空間なのである。そして、美術部員というわけではないが、誰にも愛想よく振舞いながら気軽に「真」にも話し掛けてくる女生徒が、ひろかだったのである。ひろかはよくお菓子を持ってきた。それを「真」にあげる、毎回そんな感じで二人の会話が始まる。彼は、学校に行くのが楽しくなっていくのだった……
 家の中のとげとげしい雰囲気。一度死んだと思ったら奇跡的に甦った、という設定になっている「真」に対する家族の態度は、当初、腫れ物に触る様子に思えた。母親の態度はまさにそう思えて、まるで自分が不倫していることを「真」が知っていると感じているかのような気の遣いようである。それでも、家族四人が食卓を囲んで食事をするシーンが何度も登場する。父は陽気におしゃべりし、兄はほとんど寡黙に、確かに弟を軽蔑しているような雰囲気を醸し、母はなんだがびくびくしているような気さえしてくる。彼は、母の料理には満足に手を付けず、父の話に耳も傾けず、兄には一瞥もせず、スナック菓子などを食べ、あからさまに拒絶を表明し続けた。
 けれども、このようなシーンがずうっと描かれ続けていくにつれて、観客は次第に違和感を抱き始めるに違いない。残業が多いはずの父が何故毎日のように夕食をともにするのか、勉強に勤しんでいるはずの兄が自室で食事を取らず何故わざわざ食卓にまで来るのか……「真」に拒まれ続けても母は何故手料理を作り続けるのか。
 食事を中心にした日常描写を積み重ねていくことで、少しずつ「真」という人物の色彩が、それぞれの観客の中に浮かんでくるだろう。個々に違いはあるかもしれないが、でもいくつかの点は間違いなく共有される思いになるのではないか。
 たとえば「真」がひろかに惹かれていく過程である。生前の「真」が好きだった存在が、今の自分にとってもかけがえのない存在になっていく。もちろん、自分が元々何者だったのかはわからないけれども、「真」としての生活が当たり前のものになっていくと、このまま彼は「真」として生きていくのだろうと思えなくもない。物語には、修行期間は長くて半年、という時間制限がある。丁度受験を迎える頃だ。母と同じ現場に居合わせた彼女にもかかわらず、彼の両極端な態度は、しかし、あっさりと瓦解してしまう。ある日、ひろかの後をつけるのである。彼はそこで、ひろかがよく買い求めるという駄菓子屋を見つけ、きっとひろかはここに来たのであって、ラブホテルに来たわけではないのだ、と思い込もうとする。だが、やはりひろかは男と一緒にホテルに入ろうとするのだった。どこの青春やねん、という疾走によって、彼はひろかへの思いを失っていくのだった。以降、ひろかからお菓子を貰うシーンはなくなる。
 さてしかし、何故彼は母の不倫にもそのような疑いを抱けなかったのだろうか。事実かどうかの確認もせず、プラプラの情報だけで母を汚らわしい存在として露骨な態度を取り続ける。だって父についても兄についての情報も、なんか違うじゃないか。母の情報だって、ちょっと事情があるんじゃないのか。
 ひとつの色だと思っていたそれぞれのキャラクターの色合いが、物語が進むにつれて、違う色もあるらしい気配を漂わせてくる。現実の人間たち同様に、このアニメの世界の住人たちも同じだ。彼らにもそれぞれの生き方があり、過去があり苦悩があり、好意や嫌悪もある。物語が秋に始まり冬を超え、春に向かうのと合わせるように、「真」だけでなく、全てのキャラクターが色づき始めていくのだ。
 それは、物語の後半、「真」に初めて友達ができるエピソードによって詳らかにされていく。冒頭から他のクラスメイトとは違う視線を「真」に向けていた早乙女は、この町の中をかつて走っていたという電車に興味を持ち、線路跡をたどるというちょっとした冒険をたくらんでいたのだが、「真」は、受験を控えながら能天気な早乙女の振る舞いに好感を抱き、一緒についていく機会を得る。実在するだろう町の中を・ロケーションと過去の映像資料によって再現されていく昔の町並みが、この町の色さえも彩っていく。「真」の生前を知らない主人公にとって、それは「真」にも確かに過去が存在したことを強く示唆する出来事だった。
 修行期間の終わりも迫ってはいたが、急速に親しくなっていく「真」と早乙女の関係に、主人公である彼は、ついに未来を見詰めはじめる。高校受験。当初、どうでもよかった未来・地域の最低ランクの高校に進学するよといい加減だった態度が、早乙女と同じ高校に進学したい、という気持ちに切り替わるのは道理だろう。コンビニで分け合ったチキンと中華まんという、またも食べるシーンによって、彼は「真」としての未来を見定めるのである。
 思えば、ひろかのお菓子も母の料理も、全て与えられるものだった。自分で買ったものを分ける、という発想がここにはない。二人の同じ立場の女性と、それに対する「真」の二つの対照的な態度により、彼にも二つの次元があったわけだ。それは丁度、この物語がファンタジックに天国(あるいは地獄)らしきところ(二次元的世界)から始まるのと同質である。ここに、このアニメ映画の凄さがあるのだ。
 アニメにしろマンガにしろ、全ては一から描かれているのだから、描かれたものには何らかの意図がある、という話はよく聞く。では実際に、どんな意図があるのか。緻密な背景は時折写真と見まがうほど繊細だ。「真」が通う美術室に漏れ聞こえる放課後の校内の音もまた、私たちの中学生時代を想起させるに十分なリアルさを兼ね備えており、だからこそ合唱部がどこかで歌っている歌が、ふっと耳に入ってきたときの、その歌の意味に慄然としてしまう。
 アニメの中のキャラクターもまた二次元の世界で動いている。そこに過去や未来という血肉が与えられ、思い出を刺激する小道具が散りばめられると、私たちは・少なくとも私は、この「カラフル」で描かれている世界が、今現在どこかにあるだろうことを実感していく。実在した廃線を追う話も加われば、もう「真」たちと私の世界は地続きである。友だちにチキンを分けることで三つ目の次元を獲得した彼が、三次元の存在として私の目の前に立ち上がるのは、なんら不思議ではない。
 終盤に至ると、仄めかされていた家族みんなの「真」への想いが一気に明らかになり、再び食事のシーンに収斂していく。この様子は、戦慄に近い感動と興奮があった。そうして、あのシーンやこのシーンが、「真」を大切に思う彼らの気持ちの表れだったのかと、気付かされていく。主人公のぼくと「真」という関係が同一化していくように、今までうっすらとしていた家族の心が「真」を通して鮮明になっていけば、私も「真」が体験したような感動に打ちのめされてしまうのだ。美味いに決まっているではないか、こんな幸せな食事を、主人公は……いや、私自身経験したことがない。私は、私のあずかり知らぬところで多くの人たちに支えられていた、そして、気付きもせずに、多分ごくわずかだろうけど誰かを支えてもいた。「真」が佐野という女の子の人生を知らずに強く支えていたように。そんな希望すら抱かせてくれる日常の一場面を、映画は、丁寧に描いていく。
 そういえば、彼は携帯を持ちながら、結局通話もメールもしなかった。封印されたひろかの写真はどうなったのだろうか。消しはしないだろうけど、もう見ることはないだろう。代わりに早乙女とのメールや佐野との通話履歴が記されているに違いない。そう考えると、劇中初めてきたメールから思うに、真にできた最初の友だちは、プラプラだったのかもしれない。