映画「聲の形」感想 6年2組の青い鳥

映画「聲の形」感想 6年2組の青い鳥
 聴覚障害者へのいじめを扱ったとして話題になった読み切りから、連載、そして今回の映画化と、その度に頭をもたげてくる雑音がある。いじめの加害者と被害者が恋愛かそれに近い関係になる展開に対する憤りである。
 雑音と言うとおり、私はこの感覚をまったく理解できないし、理解するつもりもなく、理解する価値もないと断言する。何故なら、この作品は読み切り版から一貫してコミュニケーションの可能性を少年少女の視点から描き続けているからである。
 簡潔に言えば、いじめという現象もまた、小学生から中学生にとって、タイトルが語る通りに、コミュニケーションの一つの「形」に過ぎないということである。
 もちろん、この考え自体に自分自身かなりの抵抗を抱いている。いじめ問題はそんな単純な問題に回収できることではないし、自殺に至る事件を身近に経験しそれらの報道にも触れている。だが、そこに囚われてしまうと、映画で何が描かれ、キャラクターは何を目指していたのかを見極めることさえできなくなる。
 それだけいじめ問題は繊細であり慎重に取り扱う必要があるのだが、映画の序盤の筋を追いながら、詳しく描かれなかった6年2組を想像してみるべきだろう。
 悪ガキ然と川に飛び込んだりテレビゲームに夢中になったり友達と遊びまくっていた石田の様子を描くオープニングを終え、クラスに聴覚障害の西宮が転校してくるところから物語は始まる。いや、厳密には、成長した石田が意を決した風に歩く姿、ひょっとして自殺するのではないかという装いで橋に向かうシーンが、少年・石田の暴れっぷりと相反する点が引っかかってくるだろうが、ともかく、先生にポンと肩をたたかれてからノートを取り出し、クラスメイトと筆談で話したいですという彼女の宣言を、映画はゆっくりと描写した。
 ちょっとざわめく教室。石田の脳裏にはシューティングゲームのラスボスらしき巨大な物体が出現した(厳密には彼女が登場した瞬間にこのカットが挟み込まれることから、聴覚障害と石田の遊び心は結び付かないのだが、結果的に補聴器の破損が示すように障害への無理解によって結び付いていくことになる)。
 当初こそ西宮と筆談をする級友たちだったが、次第に鬱陶しがられていく。意思疎通に手間がかかる、西宮に教科書のどこを扱っているのか教えるために授業内容を聞き逃すこともしばしば、女子生徒を中心に西宮は孤立を深めていく。後に高校生の西宮と再会する川井と植野もそんな生徒の一人だった。特に植野は石田への好意も手伝って、石田の西宮いじりに加わるようになる。
 石田は西宮と距離を置こうとするクラスメイトたちとは正反対に、ゲームの敵キャラとして、西宮を攻撃し続けるのだ。当然、いじめである。
 石田のいじめはエスカレートした結果、西宮の補聴器を何度も壊し紛失せしめる結果となり、母親が登場するに及んで、いじめは高額な補聴器の破損事件として表面化し、石田は主犯格として教師に名指しされることになった。
 西宮の後を受け継ぐように、いじめの標的となった石田は、今度は自分がゲームの敵キャラとして当たり前のように攻撃を受けるようになった。自分自身が水に突き落とされ、ずぶぬれになる教科書やノート。その姿は傍目には川に飛び込んで遊ぶあの頃と変わらないけれども、今の石田は、漫然とそれを受け入れていた。
 石田が見つけた西宮の筆談ノートは、西宮との再会を促し、彼女との関係性を強化する小道具となるわけだが、当の石田本人はそのノートの重要性を理解していない。ノートにさんざんに書かれていた罵詈雑言に対して、西宮は小さな文字で「ごめんなさい」と返事をしていた。誰にも届かない言葉だったけれども、どのような形でも会話をしたいという彼女の意思表示である。
 一方でまた、石田の机にも同様の悪口が書きなぐられた。自分に対するノートのそれを消さずに捨てずに欲しながら、西宮は石田に対するその言動の意味するところを知っていた。自分にとっては大事な会話の痕跡だけれども、石田にとっては、ただの投げつけられた石つぶてでしかない。だから彼女は、机の落書きを消した。西宮の行為をいじめられた相手にまで思いやる出来過ぎた良心と捉える向きもあるようだが、とんだ勘違いである。
 この映画の素晴らしい点の一つでもあるのだが、女子生徒に邪険に扱われた校庭の遊具と思われるシーンで、西宮は近付いてきた石田に「友だち」と手話で意思疎通を図るのだが、特に手話の解説がない。後に石田自身が手話を学ぶことで獲得される「友だち」という意思表示がこの時にすでになされていたこと、またずぶぬれになった西宮に声を掛けたときにも西宮が同じ手話をすることで、西宮にとって、形はどうあれ意思を図ろうとする石田は、早々に友だちとして認識されていたということだ。西宮の発話も、正直何を言っているのはよくわからないシーンも少なからずあるけれども、なんとなく聞き取れるようになっていくのは、役者の演技力もあるだろうが、西宮の声を聴こうとする私たち鑑賞者の意識の変化も手伝っているに違いない。
 それはともかく、石田にそのつもりはなくとも、西宮にとっては、友だちの机が汚くされているのだから掃除をするという極めて当たり前のことを当たり前にしていたに過ぎない。良心と言うならば、友だちへの思いやりなのだ。だからこそ、西宮は喜んで石田と殴り合いをしたのだ。それもまた、コミュニケーションの一つの「形」なのだ。
 だが、石田には西宮の友だち感覚は長く理解されなかったし、いじめて転校に至った経緯が罪として意識されたのも、彼が甘んじて孤立を受け入れ続けたことからも察せられる。
 友だちと思っていた西宮と、いじめっ子といじめられっ子の関係と思っていた石田、両者のすれ違いは、そのまま聴覚障害者と健聴者のすれ違いを表しているのだけれども、その問題は石田ではなく、植野と西宮の関係性に思春期の淡い感情を覆うことで移行していく。また、いじめを許す許さないという被害者・加害者の関係性は、西宮母と石田母の関係に収斂されており、中盤以降、石田と西宮が単なるいじめっ子といじめられっ子の関係性からはとっくに離れている・関係なくはないが、物語は二人が異なる言葉を通じ合わせようと、あがきもがく姿を克明に描写する結果となった。
 トータルコミュニケーションである。→参考URL http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r050/r050_009.html
 たとえば西宮が石田に好意を伝えようと「ちゅき」と声を張り上げるシーンがあるが、携帯で伝え直してもよかったんじゃね? と思った人もいるだろうし、石田も「月? 月って何?」と携帯で聞き返してもよかったかもしれない。異なるコミュニケーションのすれ違いは、究極的には物語として劇的に花火とベランダからの落下というシーンに回収されるわけだが、それはともかく、一つのコミュニケーションという形にこだわってしまうキャラクター性というものが序盤から徹底されていたことに気付くだろう。
 西宮であれば、小学生時代の筆談への執拗なこだわり。だからといって合唱や教科書の朗読で発話をすることで、ひょっとして話せるんじゃないかという級友からの不信感を生むし補聴器の存在が決定的となる。
 石田であれば、身体を張ったやりとりでしか対等に渡り合えない不器用さがあり、暴力や器物の破損という負の側面によって彼は自滅し、いじめっ子というわかりやすい記号性を与えられる(正の側面としては、西宮との喧嘩が挙げられるし、序盤の自殺という道も身体でしか表現できない彼の生真面目な身体性へのこだわりが見えよう)。
 植野であれば、口話へのこだわりである。観覧車で西宮と執拗に口で会話をしようと強要し、西宮のコミュニケーション(つまり筆談)に対して妥協せずに反発してしまう。
 川井の対人関係を優先した振る舞い、結絃のカメラを通してでしか人と向き合えない態度、佐原の川井とは真逆の対人関係を意識しすぎた西宮への姿勢、永束の親友という存在に対する絶対的な信頼感、真柴のいじめ絶対許せないという言葉……
 こうした各キャラクターに架せられたコミュニケーション方法が、終盤にかけて融解し、意思を通じ合わせていく展開が、物語にとって大きなカタルシスを生み感動をもたらしている。
 個人的には、石田母と西宮母の関係の変化がとてもわかりやすく描写されていると思う。
 お金のやりとりはコミュニケーションとして簡潔のはずだが、公園での二人のやり取りを思い起こせば、会話を一切描かれていなくとも、前述した被害者と加害者の関係性が容易に想像できるし、右耳のピアスを失い血を流した石田母の姿は、いくつかの想像をさらに促す。お金が足りずピアスを足したのだろう。
 二人の関係はこれっきりなのだ。だが、子どもらが友好関係になることで、再び母同士の関係も浮上する。石田と再会した西宮母がいきなりビンタをしたのも、西宮母にとっては、これっきりという思いがにじんでいただろう。
 だが、身体によるコミュニケーションに慣れ親しんでいた石田にとって、西宮母の態度は拒絶ではなく受容と勘違いされても仕方ない。頭では「ですよね」と拒絶を理解しても、彼は西宮と喧嘩した時のような気分を味わったと考えたが、さすがにそれは穿ちすぎだ。
 ともかく、身体によるコミュニケーションが手話と親和性が高いのは、改めて説明するまでもないし、口話に拘泥し続けた植野が文化祭で手話を見せたシーンが感動的だったのも、それに対して西宮が「バカ」と発話するのも、互いに理解した結果であり、トータルコミュニケーションの一つの可能性を描いたという観点からも大いに評価されるべき映画なのだ。
 それでもやっぱり、石田のいじめが贖罪されるわけではない、納得できないという気持は残るかもしれない。だが、その気持ちは残っていいのである。むしろ忘れずにずっと想い続けるべきなのである。
 石田は西宮に対して生涯忘れることなく、彼女をいじめた過去を背負い続けるだろう。自殺しようとした過去も石田母に対して忘れずにいるだろう。自分の言動によって生じた結果を受け入れ、その過去とともに生きていくべきなのである。
 「聲の形」をさらに理解する指標として、最後に一本の映画を紹介したい。重松清の小説を原作にした、中西健二監督、阿部寛主演の「青い鳥」(2008年公開)である。
 いじめ自殺事件が起きた中学校、結果的にその生徒は自殺未遂で命は助かったのだが、家族と町から引っ越して転校した。主人公の教師・村内は、そのいじめが起きたクラスに担任教師の休職の間だけ赴任した臨時教員として登場する。どもりの彼は、生徒から奇異の目で見られ、時折その話し方を揶揄されることもあったが、真剣に生徒たちと対峙する。片付けられていた転校した生徒の机を教室に持ち込み、毎朝、その机に向かって挨拶をするのだ。
「おはよう、野口くん」
 野口は遺書を残していた。いじめた張本人の名前が三人書かれていたと噂され、二人までは教育委員会に直接呼び出された井上と梅田と断定されている。残りの一人は誰か? 野口と親友だった園部は、彼に対するいじめを止めるどころか放置し、一度は加担してしまったことを悔い、三人目はきっと自分に違いないと悩み苦しんでいた。
 佐原と西宮が去った後の6年2組が、この映画で描かれている。
 野口をいじめていた井上は、園部に向かってこう言う。「俺たち、いじめなんかしてないよな。だって野口、いつも笑ってたじゃん」
 野口の笑顔の裏には、当然いじめを決意するほどの苦しみがあった。だが誰も気付かない。いや、園部は気付いていた。気付きながら傍観したことに自分も苦しんでいた。その苦しみを忘れてはならないと村内は語る。そして、野口が笑っていた理由をも村内は悟る。
 それが、彼特有の、コミュニケーションの取り方だったのだ。